歴史観光へのアプローチ
会長 今田 光夫
函大大野教授の所見を綜合すると、函館は地方拠点都市、地方中核都市と位置付けられ、市民は、観光都市を希望しているとされる。この場合、観光の要素としては、函館山を中心とした自然景観、さらには、遠く横津連山の緑も貴重であろう。また江戸末期の開港にちなむ多くの遺構を見逃すわけにはいかない。ユネスコの下部機構であるイコモスは「記念物および遺跡の保護と復原のための国際憲章」を起草し、ユネスコはその総会で「文化遺産および自然遺産の国内的保護」に関し(1972年、パリ)あるいは「歴史的地区の保全および現代的役割」に関する(1976年、ナイロビ)勧告を採択し、自然と歴史的遺構の国内的、国際的保全とその具体的方法論にまで及んでいる。これらの勧告によれば、その定義(要旨)は、
文化遺産:記念工作物、建築物
自然遺産:無機的及び生産学的生物又は生成物群からなる自然の記念物で、観賞上又は科学上特別の価値を有するもの……。
歴史的地区:都市環境又は田園環境の中で人間の居住地を形成する建造物、工作物、及び空間の群であって、考古学的建築物、先史的、歴史的、美的又は社会文化的見地から一体性及び価値が認められるものをいう。特に先史遺跡、歴史的都市、旧市街区、村落及び小部落……。
緑の自然が無視された大都市に密集して生活する人々は、過度に物質文明化した社会へのレジスタンスとして、自然への願望の高まるのは当然であろう。
これまで、木材生産が森林の第一義的効用とされたが、今では、その間接的効用(治山、治水、災害防止、風致の維持、保健の場など)が直接効用にとって代りつつある。函館山の緑をいだく函館市民は幸いである。さらに市内の随所に緑地域、緑地帯の設置を願いたい。それは単に市民に精神的な安らぎを与えるばかりでなく、都市の風格を高めるゆえんでもあろう。
箱館は北辺の防備を主な目的とした幕府の第一次直轄と共に蝦夷島の政治、経済の要地となり、開港に具えた第二次直轄を期に、その地位を確立した。開港に先立ち、外国船の往来しきりとなり、弁天台場、五稜郭が相次いで着工され、内外多事の中に整備が進められ、開港と共に諸国領事の着任を見た。今に残る五稜郭はその最大の遺構であり、時代はずれるとしても、ロシア領事館、ハリストス正教会、英国領事館などは当時ゆかりの建築物であって、函館の歴史的風土を特徴付けるものである。幕末期の「赤蝦夷の脅威」は、今の国際的関係にも似ている。旧英露領事館の何れかを修復復元して、「開港記念館」を開設してはどうだろうか。
幕末期における国際的体験は、日本としても始めてのものであって、箱館(函館)の国内における位置を特徴付けるもので、その影響は計り難いものであったろう。客集めを意識した観光施設は、一般に効果は上らず、むしろ逆効果となりがちである。函館の場合、他に例を求め難い歴史性をいかした企画が望ましい。文化の定義は難かしいが、文明の物質的精華に対して、人間の精神的活動の所産とされ、学問、芸術、思想、科学、政治、社会、経済、法律、風俗など人間生活の広い領域に及ぶ。
観光文化なる言葉が定着しはじめているが、娯楽主体のものでは、文化に値しないだろう。函館の歴史性を軸とした施設であれば、市民の共感を呼ぶと共に、来訪者の共鳴をも期待できるであろう。豊かな歴史的建築物群と自然景観の融合を計ることこそ市民の願望の具現の方法と考えられる。
そのためには、近代建築物など有形、無形文化財の保全、特にその市文化財指定の促進が望ましいが、その方は遅々として進んでいない。このままでは市当局の文化行政の姿勢を問われることになりかねない。
市の文化行政が、教育委員会の片手間に進められていることにも問題がある。少くとも、社会教育部内に、部長級の専任者と、そのスタッフが必要であろう。さらに文化行政は縦系列の部門行政ではない。全行政部門を横につなぐ総合行政でなければならない。従って、全庁的推進体制を作る必要があろう。
文化行政は前に述べたように守備範囲は極めて広い。機構の手直し程度では行政の文化化は望み難い。市民の声をどう吸い上げるかに問題がある。
その好例に、北洋資料館がある。設備場所や建物の規模は別として、その展示内容については、すでに業者に発注済というのに、その計画は市民の誰もが知らない。文化的施設の進め方としては、あまりにも狭量稚拙というしかない。文化施設の推進に、市民の英知を吸い上げる方法を考えることが、行政の文化化の第一歩であろう。
《第4回定期総会記念講演より》環境問題への示唆~環境をどう捉え、どのように守っていくのか~
講師 木原 啓吉氏
・千 葉 大 学教授
・元朝日新聞編集委員
環境問題を考える時、そのとらえ方は国・地域の人々によって大きくかわっている。日本の場合、環境問題は水俣にしても異常な程はげしく、また、景観の乱れとか建造物の不調和とか、様々な特徴を持っているが、ヨーロッパ諸国ではそれ程ひどくなく、環境も安定している。我が国において、これ程までに環境破壊を許したなかに、我々国民の環境を見つめる目とヨーロッパ諸国の人々のそれとのちがいがあったからではなかろうか。
例えば、1976年の0ECD(経済協力開発機構)は、日本の環境行政をとらえ、「公害対策と自然保護の行政にしばられ、一体、日本政府は、歴史的環境·都市の景観その保護対策について何をしてきたのか」と批判している。OECDでは、公害と環境とを区別して考え、環境問題をずっと幅広くとらえている。
日本において環境問題が意識された第1段階は、公害問題である。つまり、目の前の公害をどう解決するかということであった。環境という意識はなく、意識の立ち遅れがあった。しかし、公害と取り組むことによって運動も起こり、環境を見つめる目が厳しくなり、人間の生存の基盤である自然が揺らぐことへの危機感や自然をなんとしても守ろうとする警護運動·告発運動が起きた。これが第2段階である。第3段階として、1970年代後半から、歴史的環境・環境の文化的価値に注目するようになった。公害が人体への直接の攻撃とすれば、歴史的文化的環境の破壊は精神生活への攻撃である。文化的環境に関心や誇りを持つ程、失われた後の欠落感は大きい。公害が環境を見る横軸の視線とすれば、歴史的環境は時代をつなぐ縦軸の視線であり、今や総合的に環境を見るように、十数年の間に住民の意識は拡大してきた。歴史的街並の数が、昭和47年の調査では120であったのが、最近の調査では400を越している。このことは「見えども見えず」の状態から、足で歩き見出すという住民の環境感の立体化を示している。また、「スモッグの下でビフテキを食べるよりは、この青空のもとで梅干をなめているほうがいいですよ」と環境庁大臣につぶやいた老婆の言葉は、明治以来の「生活水準の向上のために、若干の環境の犠牲もやむを得ない」とする二者択一の論理から、「環境が守れて、はじめて生活水準も高まる」とする時代の転換を予告している。
環境を幅広くとらえることは、ヨーロッパではかなり前から進んでいる。例えば、イギリスの環境省―’70設立、以前の住宅地方行政、公共建設事業省、運輸省が合併―を見ると、「人の生活環境に影響する全分野の活動を所管する」と明示し、都市計画から国土計画、住宅・交通問題、文化財保護·歷史的環境保存、自然保護、公害対策等全部をカバーし、幅の広さと先見性を持っている。
また、「ナショナル・トラスト」も古くからあるその一例である。それは、1895年、工業発展に伴う破壊から「美しい自然や歴史的建造物を、みんなからお金を集め買い取っていこう」と、3人の弁護士·婦人活動家・牧師が提唱した運動を始まりとする環境保存団体である。1907年には、ナショナル·トラスト法ができ三原則が確立し、以後飛躍的に拡がった。「ナショナル」とは、「国家の」ではなく「国民の」を意味する。三原則の1「不可譲の原則」。これは、国会の承認なしには、他に転売してはならないとするもの。2「相続税の免除」、寄贈した場合、維持管理をしながら我々が住めるようにと、相続税が免除される。3「丸ごと移管」、建物だけでなく、装飾物・家具・什器それに続く農地から水車小屋・小作人もと、内部・外部の環境をワンセットとしてとらえる原則である。また活動の大原則は「1人の人が1万ポンド寄付するより、1万人の人が1ポンドずつ寄付することを甘受する」というものである。1965年には「今一番保存すべき大切なものは何か」の話し合いで、海岸線の保存が挙げられ、国民的共感を得、1973年までに十数億円の寄付・192マイルの美しい海岸線の買収を達成している。現在は「会員数87万人、年会費7ポンド(約五千円家族は半額)、取得物件の主なもの土地40万エーカー(東京都の2/3)・200の歴史的建造物・100の庭園・美しい海岸線 350マイル」である。
日本でも、現在、このような運動が進展しつつある。斜里町宇登呂の原生林再生、国立公園内の百平方に買い取り運動「夢を買いませんか」がそうであり、原点は木曽路の麦籠村「妻籠を愛する会―妻籠憲章」に見られる。その他にも、各地で運動が起こっており、これこそ典型的な自治体活動である。
我々が環境を語るとき、その根底にアミニティーの思想がある。快適な環境をめざしての集合的価値の総合として「何ともいえない、しっとりとした雰囲気―然るべき処に、然るべきものが存在する状況」「金銭にかえられない、心がなごみ、心のたよりとなるが故に、住民にとって重要な価値を持つもの」そういう物を大切にする思想が必要である。また、「文化遺産は、人類の遺産であり、人類に付託されたものである」という国際的な視野に立ってのとらえ方も必要であろう。
<要約 多田満彦>
「守る会」と「走る会」
函館走ろう会 会長 佐藤 七郎
走ることとサケをのむこと以外に能のない私が、守る会のような立派な会の会報に、禿筆をとる破目になったいきさつに就いては割愛しますが、守る会と走る会とを対比して見ると、恰も双生児の様に相似ているのにおどろきます。どちらも誕生以来3~4年のホヤホヤであること、会員数が2百数十名であること、行政やスポンサーに頼らず会員の浄財で運営していること、などです。そしてドンピシャリ一致しているのは、守る会も走る会も、函館市を最も愛する市民によって構成されていることであります。
私たち「函館走ろう会」の発足の趣旨には、第1にまず走ることによって自分自らの健康を増進し(病気したり寝たきり老人になったりしては、自分、家庭の不幸になるのみならず愛する函館市に多大のご迷惑をかけることになります。)第2に走る仲間の輪を拡げ、第3には、ひいては函館市の健康都市づくりに聊かなりとも貢献したいとうたってあります。
私が函館市、移り住んでから丁度13年。函館は本当に素晴しくよい町であり、昔はもっとよかったろうと思われます。この函館市のよさを守る会が活躍していることを私に教えてくれたのは、副会長の田尻聡子さんでありそしてそのきっかけがハリストス正教会の草刈奉仕だったわけです。
守る会の皆様は、きっと心の優しい、愛市精神に燃える、そして賢明な方々である筈です。この人達が、自らのよさをまず守り、助長し、そしてこのよい仲間の輪を次第に拡げて行く事が、函館の歴史的風土を守る事に結着するのであろうと思います。
守る会の賢明さと、走る会の愚直さとに於て、格差はあっても愛市精神に於ては全く同一であり、お互い手を取り合って愛する函館市の為、頑張ろうではありませんか。
ひと言
「走ろう会」では常日頃走る道端は清潔であってほしい。特に函館の顔、西部地区は大切にしたい…と走り乍らゴミを拾い公園清掃等を重ねて来られた。偶々歴風会のハリストス正教会での草刈行事を新聞で見、市民的共感から自発的に参加して下さった。小雨煙る境内で走ろう会有志、歴風会会員が共に汗を流した暖かいご協力に深謝します。この草刈奉仕がご縁となって同氏は本会会員となられました。<田尻>
街造りへの或る視点
建築家 上貞 幸丕
人びとは、ある生活の仕方で暮しており、その住み慣れた世界をより良くしようと努力したり、自らに納得しようと試みたりする。今日の社会状況は、日常的にも相互交流の中に住みこなさなくてはならない。そこに利害関係も絡めば、生存にもかかわる問題が発生する。それは動植物にもみられる弱肉強食の生命現象としての筋書きであるが、人類は自己保存だけでなく「博愛」ということが加えられる事によって共存を可能にしてきた。ここで問題になる事は、他者の立場、他者の考え方、他者の反応を理解し相互の矛盾を乗り越えるアイディアの発見、実行ということになる。その媒体となるのが空間的に表出された表現であり、その姿や形である。目の輝きや顔や身振りに始まり、物質に託したり、象徴に頼ったりして伝えられる。言葉の中に育ち、形の中に住みつく。時間の経過と共に、それはある集団の中に定着し、あるいは慣習として、あるいは伝統として変化しにくい存在、形姿となっていく。今後変貌を余儀なくされるであろう函館の街造りは、自らの努力で、又何の為に如何に作るかという事が私達に課せられた問題なのである。一方向からの専門的見地だけで事を進めることは、片輪になりがちである。生から死の時間の中で行動する人間にとって、その生存は母の胎内でそうであったように、まず空間を占拠する事から始まるなら、私達に託された函館の歴史、文化を含む伝承は、将来への見通しへと筋立てがはっきりと計画され、形態として整える方に重点がおかれなければならない。
シドニー、オペラハウスの設計者の描いた一枚のスケッチの、広大な海と地平線の上にかもし出されたシルエットの美しさは、人々の感動を呼び、又その形姿は、人々の心の存在を豊かに詩い上げている。
つくるとは、今迄存在しなかったものが、新たに形を与えられる事であり、それは創造的な知性の働きによるものである。この働きによって今迄不可能とされていたものも、あるいは可能となり、更に現実性を持つようになる。その結果、私達に新しい物質自由を与えてくれる。別な言葉を使えば、自然に対する人間の能動的な関係が生れてくる。力ある人生観とは、大自然の中に超絶的な存在を認めた上で直接に生産する所から生存を維持し、発展させることになるのではないだろうか。
北洋資料館問題始末記
前「市民の北洋資料館を実現する会」代表世話人 和泉 雄三(函大教授)
(1) 発端
昭和56年4月22日、平塚千鶴子さんを招き、西部の大町会館で会合を持った。主催は、函館街作り連絡協議会である。これは、函館圈都市問題研究会、歴史的風土を守る会、中小企業家同友会函館支部、建築雑考の会の四団体の連絡協議会である。できたてのホヤホヤのこの会、街作りを語りあう連絡会議だったが、一番初めに取り上げたのが、北洋資料館問題だった。
もともと、我々自身が北洋資料館問題を自発的に取り上げたのではない。この年の1月迄、市長自ら道立北洋資料館を西部に誘致する運動をしていることを知っており、大へん結構なことだと思っていた程度である。ところが、2月、道の三上副知事が視察に来て、その設置場所に異論を唱えてから、話がむずかしくなった。市長の誘致場所は、旧郵便局跡地だったのだ。市長は、三上氏を自ら、旧郵便局跡地へ案内し、陳情したと聞く。ところが三上氏は、入れ物が大きすぎて金がかかる、もっと安く2億円道費補助であがる場所にしてほしいと述べ、拒否回答をしたのである。市長は、北洋資料館が全くできないよりはよい、と判断したのか、市有地の函商跡地に場所を急きょ変更、規模も2億円道費補助でできる小型の市立北洋資料館構想に切りかえた。これを、かねて構想していた函商跡地に建てる総合文化センターの一部とする計画を立て、道の了解を得て、急ぎ市議会にかけ、本会議で、この構想を決定してしまったのである。アレヨアレヨという間である。我々が新聞紙上で知ったのは、3月になってからである。その時は、ヘンな所に建てるなあ、なんで西部の海辺に建てないんだ、程度の感想しか持っていなかった。
ところが、本気でこれを取り上げ、反対運動を始めたのは、旧日魯漁業関係者と、西部の町会長さん若干名だった。特に平塚氏の遺児、平塚千鶴子さんが立ち上がり「北洋資料館誘致期成会」を結成し、自ら会長となっていた。私財を投じても、北洋資料館を西部に誘致したい気持だと聞いた。そして援助を中小企業家同友会に求めたのである。同友会は、丁度街作り連協の事務局を引受けていたので、これを連協にはかり、では、手塚さんを会長に、我々も参加して、誘致運動に協力しようということになり、冒頭の会合となったのである。
(2) 平塚氏別行動をとる
ところが開いてみると、どういうわけか、平塚氏の方で手を切るといい出した。「私たちは私たちだけでやる」という。然し、連協で正式決定したことだから、我々ももうあとには引けなくなった。市議会決定後でもあり、99%迄成功しないとは思ったが、正しいことをいうのに何をはじることがあるか、ということで、我々だけで「市民の北洋資料館を実現する会」を結成したのである。
(3) 経過
5月から、署名運動、シンポジウム開催、市長交渉が始められた。目標月日は6月12日の市議会総務委員会だった。30余人が、うって一丸、火の玉のようになり、見事に団結して行動した。6月11日の夜、突然、大河内事務局長宅へ市長が訪れ、何人かのメンバーと話しあい、函商跡地には予定通り建てるが、市民の要望も入れ、西部にもう一つ建てるという二館構想を提示した。この拒否回答を6月15日の朝、丁度総務常任委員会開催の前に市長に提示すると共に、市議会入口で、100人を越える市民達の「学習会」を開催した。結局総務常任委員会は流会、委員の中には、我々が坐り込みをやったので「物理的に開催不能」という人もいた。6月21日、「市民と議員のつどい」を開き、ここで、我々の北洋資料館構想が示された。これは、今でも実に立派なものだと自負している。図面入りのこの構想の担当部分を、のちの修正市案の至るところに盛りこまれているくらいである。
この間、集った署名が実に4万名、函館市始って以来の数であった。署名運動のため、私自身、3回街頭演説をした。生まれて始めての経験である。
(4) 6月30日午後11時25分!!
この日、この時間は、私自身、終生忘れることはできないと思う。我々の陳情を、総務常任委員会が否決した瞬間である。70人もの我々同志が固い椅子の傍聴席で見守ること12時間であった。この時、ついでに歴風会の陳情も、否決された。「北洋資料館二ニュースNo.4」は、この日を「文化都市崩壊の日」と命名した。
(5) 教訓
市民運動も、やればかなりやれるということを我々は知った。同時に、このような文化運動でも、結局は政治の壁にぶつかることを教えられたのである。7月12日、街頭で、この会は解散し、「新しい函館の街づくりをめざす市民会議」と衣がえしたのである。
軌跡 そのあらまし
*4/22 「市民の北洋資料館を実現する会」発足
*4/30 役員事務局体制確立①シンボジウム②署名③構想三委員会設立*5/16 市長・議長に陳情書提出
*5/18 署名運動開始*5/24 街頭署名
*5/29 「第1回市民と議員との対話のつどい」開催(与野党議員9名参加)
*6/6 渡島支庁長と会見。構想委員会、旧郵便局舎を現地調査
*6/11 市長「二館説」提案
*6/15 市議場前で市民の学習会開催(100余名参加)
*6/21 「第2回市民と議員とのつどい」開催。市民の北洋資料構想(16頁亘る)発表(旧郵便局舎150名参加)
*6/23 署名32,861名分を市長に第一次手渡す
*6/25 道庁に陳情団派遣。寺田副知事、湯佐水産部長に面談、道に陳情書提出
*6/30 定例市議総務委員会に於て「北洋資料館の西部地区建設を求める陳情」他三市民団体の陳情をも否決、不採択さる
*7/12 街頭にて「新しい函館の街づくりをめざす市民会議」として再発足。
※その他さまざまな交渉、議員対策、街頭署名に対しあらゆる団体、市民各層の多大なる協力に深謝する。
野外展入賞作品の中から
*去る9月15日秋晴れの下”第2回ふるさと写生野外展”、が旧郵便局本局々舎前で開催された。絵筆を振るう子供達の真剣なまなざしと歓声が交差した楽しい1日であった。以下の作品は入賞作品の中から数点掲載してみました。
*ふるさと写生野外展入賞者名
市長賞 堀口 みき
教育委員会賞 河合 ふみ
道新賞 陰山 のりお
〃 砂原 清美
〃 野村 光
〃 池上 輝子
朝日新聞社賞 大内 龍也
〃 小坂 かおり
〃 新栄 清一
〃 丸山 辰雄
読売新聞社賞 瓶子 ゆり
〃 村松 昌樹
〃 細川 和成
毎日新聞社賞 西田 欽也
〃 中谷 小百合
〃 小野 幸太
HBC賞 上井 俊彦
〃 浅野 玲子
〃 小坂 るみ子
〃 柳沢 理香
NHK賞 おちあい たかこ
〃 高橋 伸幸
〃 三浦 剛
〃 門間 勲
市美術教育研究会賞 吉井 恭子
函館ライオンズクラブ賞 おちあい よしこ
〃 関根 貴子
〃 石川 健太
〃 本間 弘法
〃 吉田 亜佐子
歴史的風土を守る会賞 戸次 大介
〃 本間 理英
〃 長沢 康之
〃 西田 孝一
〃 芦田 千枝
(株)魚長食品賞 佐々木 雄一
〃 松本 圭司
〃 浅野 奈苗子
〃 紺谷 栄子
〃 大西 晶代
歴史の散歩 シリーズ《8》=古建築をたずねて1=~古きよき時代からのメッセージ~
- 函館工業高等学校プロジェクトスタッフ
- 3年建築科
- 石川 勝
- 神林 稔
- 2年建築科
- 小笠原 清一
- 金田 徳明
- 雲井 一紀
- 斉藤 将俊
- 佐藤 晃
- 1年建築科
- 五十嵐 潤一
- 川崎 実
- 菊地 賢行
- 管原 千恵
- 平野 妙子
- 若林 武司
- 3年建築科
昨年の、とある日、一つの古い写真帳を手にした事がこのプランのはじまりであった。
わが街函館には、文明開化に明け暮れた明治期の魅力ある建物が今も街の隅々に残存する。然し時代の趨勢の中で大火その他の事由で一つ、又一つといつの間にか消えていった建物の数々に遠く懐いを馳せる時ただただ惜しまれるばかりである。
さて、函館工業高等学校・建築科の皆さんによって下記の苦心の調査に見られる通り、往時の函館の栄華やノスタルジャーがこれら建物の一つ一つから、そこはかとなく伝わって来る。
この調査結果は、昨年同校六〇周年記念祭に於て未完ではあるが、見事に発表展示が成され、同時に専門家・市民からの反響は大きかった。以下若者によるこの掲載記事が古きよき時代を再認識し、現在の街づくりへのよすがにでもなったなら幸いである。なお作業は今夏完成の予定で進められている。本紙では今号を筆頭に三回シリーズで随時掲載の予定である。ともあれ、次代を担う若い力と彼等の連携ブレーに惜しみない拍手をおくろうではありませんか。
追記として同校建築科・豊山先生はじめ諸先生方、更には資料提供下さった多くの方々の側面からの暖かい適切な指導と励ましがあったればこそ、実現にこぎつけた事も付記しておきます。
なお、この記事に関するご意見等を編集部までお寄せ下さい。
〔主旨〕現在の私達が住んでいる函館が”函館区”と言われた時、当時の街並には、どのような建物が建ち並び、当時の文化は……。
一つの古い写真帳(東宮殿下北問記念写真帳)を見せて戴いた時、私達の夢は、一気に遠い昔を温ねてみよう!! 私達は、建築を学ぶ生徒だ、”温ねてみるべきだ。”欲望とも云えぬ、心に沸き立つものが出てきたのです。
〔内容〕そこで、私達は、写真帳を手掛りに、まず写真に載っている建物が、昔どこにあり(住所)、現在のどの辺りに建っていたかを調べることにしたのです。しかし函館は、昭和九年の大火を最後に合計3回も大火があり多くの建物が焼失したり、又区画整理等により、調べるのが、思っていたより難しく、困りました。
函館図書館に、雨、雪の日や日曜日、放課後の限られた時間の中で、調べに行ったこともあります。図書館では、古い資料をあらかじめ用意してもらい、住所と地図の作成をしました。住所は、主に大正時代の電話帳からひろいました。それは、写真帳の建物には、商店建築が多かったからです。おおかた、住所が、調べ終ったあと「パネルの地図、文章」と「建物の写真、聞きこみ」を主に2つのグループに分かれ活動をしたのです。パネル作成の班は、写真帳の建物の紹介を書くために、多くの本から調べたので難しかった。建物の写真、聞きこみの班は昔の地図を手掛りに現在の地図と照らし合せながらの行動は、活動しにくかったし、寒かったです。又、知らない家におじゃまして、昔の事をたずねるので困ってしまいました。でも、スタッフみんな、「辛かったけれど、いろんな事が解り、いろんな人と話しが出来て楽しかった。」と言っています。私達のパネルは未完成ですが、函館工業高等学校60周年記念に展示したところ、市民のみなさんの興味深そうな声、「懐かしいな!」「こんなすばらしい建物もあったのか!」……を聞いて、スタッフー同、とてもうれしく思っています。
〔展望〕今後、未完成のパネルをより完全な形にするため今、活動を続けています。それから、町の人々などに当時のことを伺ったりして、多くの資料を集め、もっとくわしく、解りやすいものを作りたいと、がんばっています。
ここで、市民のみなさんにお願いがあるのです。「私達に、当時の建物や、出来事など、御存知の事がありましたら、お教え下されば、幸いと存じます。又、この活動をするにあたり、資料を提供してくれた芳々、御協力して下さった人々には、厚くお礼申しあげます。(小笠原清一・記)
〔1〕函館区役所
明治12年7月、郡区町村編成法実施で、これまでの大小区画は廃され、新たに函館区役所が生まれたが、これは官制の区だった。
それが自治制の区になったのは明治30年10月である。その新しい区役所は、35年相馬哲平が豊川町に敷地、建築費一部を寄付して、12月竣工し旧場所(函館支庁舎)から移転してきた。だがこの立派な建物は昭和9年大火で焼け、市役所(大正11年市制)は市民館へ移った。
▲現在は、函館市豊川町仮庁舎で土木部と選挙管理委員会が入っている。
▲当時の函館区役所。(ゴシック式の屋根をもつ立派な建物)昭和9年の大火で焼失する。
〔2〕函館小川合名会社
西浜町15
米穀海産般舶、漁学 代表社員 坂本作平
小川合名会社は、明治44年2月1日資本36万円を以って創立す。本店を函館区西浜町15番地に有し、支店を同区幸町9番地に設置し、その本店の営業科目は、(一)海運業、(二)漁業、(三)米穀問屋業、(四)海雇依託販売業にして支店営業科目は、(一)監元売捌、(二)雑貨荒物販売業を目的として営業の経営を為し、坂本作平を以って代表社員とし営業全般を総轄す。
▲現在店舗は老朽が激しく空家。一部住宅として使用。
▲殷賑をきわめた往時の同社。
〔3〕百十三銀行及貯蓄銀行
明治12年1月、第百十三国立銀行として開業
北海道における本店銀行の最初だった。
株主は函館の富商らで初年度から年一万円で翌年には資本金20万円となっている。
29年株式会社百十三銀行と改称し、昭和3年北海道銀行に合併された。
▲現在跡地は南北海道電子計算センターが建っている。
▲ありし日の百十三銀行及貯蓄銀行の立派な和洋折衷の代表的建物。
文化プリズム~その2~ 新撰組零番隊より愛をこめて
新撰組零番隊 参謀愛人28号 堀越 康子
突然ですが、私は新撰組”零番隊(ゼロバンタイ)”の鉄人28号ならぬ参謀愛人28号です。昨年”歴風会”主催の”道南の史跡探訪会”に参加させていただき、多くの人達と知りあえたこと、このように歴風会との交流のチャンスをつかめたことをとてもうれしく思っています。
この探訪会に参加してみて感じたことを一言で言うならば、途中で摘んだ母子草のように”やさしい人”の集りであるということ。初めての部外者をも快く迎えていただき、晩秋の半日を楽しくかつ有意義に過すことができました。見学に先だち、いただいた資料等を読みながら、バスの中では和気あいあいと自己紹介もすみ、先生方のお話をうかがいながら見学先へ…。戸井町では、北海道に現存する5基の板碑のうちの2基を見ることができました。板碑を見たのは初めてでしたが重圧感…みたいなものを感じました。また、個人では、ちよっと行くことのできない古武井の”高炉跡”など、興味深く見学させていただきました。そして見学する先々では、先生方の説明、それに加え説明者の方についていただき、土地の人ならではの説明も入り、満足のゆくものでした。このような少数ながらも充実し、まとまった”歴風会ならでは”という特色のある催しが今後も数多く、企画・実施されることを望みます。
さて、”新撰組零番隊”について説明させていただきます。零番隊は、昭和55年2月に”零番隊よ夢追い人であれ”を合言葉に結成された新撰組愛好会です。零番隊の隊士は”ミーハーからアカデミックまで”をモットーに、とにかく興味がある!という個性ある人達の集りで、年齢も14才から59才までと幅広く、分布も兵庫県から北海道と35名がちらばりながらも今は2月の2周年記念にむけ、隊士一同励んでおります。隊の活動としては、奇数月に隊誌”零”、号外として家内工業”かわら版”の発行及び各地における”史跡探訪”と”集会”を行っております。函館は、幕府の、新撰組の終焉の地であり、我が愛する土方歳三の謎を秘めた最期の地でもあります。今も全国から新撰組にひかれている人達が函館にやって来て五稜郭や碧血碑をたずね、遙か維新へと思いをはせています。この人達が碧血碑などをたずねても知らない人の多いことに驚きます。”函館の歴史的風土を学び・知らせ・守ろう”の言葉をより深く広く浸透させていってほしく思います。そして、これからも若輩の私達に御教示・御指導をお願いいたします。
▲古武井熔鉱炉跡への、手すりのない吊り橋を渡る参加者。左より3人目が筆者
“失なわれた遺産” =函館・雑感=
会員 小林 吉男
長い鎖国を解いて開港した港町を窓口に西洋の進んだ文化、生活様式を消化しやがて近代国家を形成して行く中で、私達が生まれ育ち生活している函館もその一翼をになった歴史的町並が、函館山東麓斜面から函館湾に面してたたずんでいます。
この西部地区の中でも石畳をしきつめた幅広い基坂を中心とした地域は特に象徴的であります。山すその一角にみどり豊かな函館山を背に文化の殿堂旧函館区公会堂その下に行政の本山旧渡島支庁、右下には外交面で当時の大帝英国領事館、左下には医療の総本山市立函館病院、さらに坂を下りて左角に商業の先駆者初代相馬哲平氏の相馬商事、右角には金融の元締日本銀行函館支店。
函館湾を背に貿易の窓口旧函館税関等、明治、大正、昭和を代表する建造物には風格があり稀に見る象徴的町並であった。
旧渡島支庁舎前からの景観はすばらしかった。度重なる大きな火災にもめげず先人達は苦難をのりこえて防災機能をそなえた町造りを進めたのです。幅広いなだらかな坂道を下った港の入口に左右対称のシンメトリーな伝統様式の旧函館税関があったのです。
この地域の最も重要な一角の旧函館税関がこつぜんとして消滅した。しかもその跡地をこの地域の調和にかける創造感覚のとぼしい建造物が占有しているのです。又山の手の旧渡島支庁舎も当市の心ある有志や、守る会等の良識的意見もつぶされ、移設される事になりこの地域の歴史的価値観が大きくうすれたのではないでしょうか。
町並の変革には地域の人々の理解、責任行政、専門家の意見等むずかしい問題がありますが、特に行政サイドにおいては慎重に粘り強く先人の遺産の正しい伝承に心と力をつくしてもらいたいものです。
全国各地での若者のふるさとUターン現象、本物思考、又手造りの心と、これらは一時のかっこよさや人気とりだけでなく、ライフワークとして真剣に取りくんでいる若者のグループの輪が広がってきています。
現代の若者達の中に創造性豊かな一にぎりではありますが、先人の遺産、生活、文化、環境を受けつごうとする心がめばえてきています。この若者達を私達は長い目で大きく育てなければなりません。それには、先人の遺産を正しく正確に伝承しなければ無意味です。ある時代の御都合主義や、責任行政の不手際で変えられていいものでしょうか。
商業観光的に見ても正しく正確に伝承された物には歴史的価値があり、本物の観光資源となるのです。何々跡地などと云うのは単なる墓標にしかすぎないと思うのは私だけでしょうか。
私達は、先人の遺産を後世に正しく伝承できるであろうか、又私達は先人の遺産にもおとらぬ文化、生活、環境をのこしうるだろうか。私達市民の心にのこる遺産は失いたくない。(写真家)
街並用語アラカルト
*イコモス(ICOMOS)(国際記念物遺跡会議)とは……
本会会報でときどきお目にかかる言葉ですが「イコモス(ICOMOS)は、史的記念物遺跡に関する国際会議で、ユネスコ(UNESCO)(国連教育科学文化機関)の外郭団体であり①世界各地から様々の人、情報、物を集める役割りと共に②各団政府に歴史的環境問題に関する勧告等の働きかけもする。この2つの側面をもつ」とイコモス(ICOMOS)の理事者ソニエ氏は語っている。
更にイコモス(ICOMOS)総会の国際会議に毎回出席されている千葉大教授、木原啓吉氏によると「イコモス(ICOMOS)は、1964年、歴史的環境保存対策の国際交流を計る為作られた非政府団体である。本部をバリに置き、建築家、都市計画家、歴史・考古学者、ジャーナリスト、住民運動代表等により構成され、60ヶ国が参加し政治体制、国家の差異を越えて、相互に協力し合っている。自国の歴史的環境を守る事は即ち人類の文化遺産を守るという普遍的原則実現により「イコモス(ICOMOS)」は世界の平和確立に寄与している」とイコモス(ICOMOS)のすべてを象徴する言葉をのべている。因みに今号1頁目、今田会長の一文を御参照下さい。
第3回 道南史跡探訪会~下海岸の史跡見学に参加して~
運営委員 会田 金吾
講師、戸井町教委、社会教育係
山田 潤一氏
講師、尻岸内町教委教育課長補佐
守山 章氏
本会世話人、運営委員
大森 好夫氏
会田 金吾氏
田中 雪子氏
S56年11月15日の朝方は雨で、見学は心配されたが、幸い15人ほどが参加した。市役所前を9時に出発、五稜郭タワーに寄り同方面の会員を乗せ、大森、田中両運営委員の先導で目的地へ。車中で今田会長の挨拶。
雨もどうやら小降りになり、やがては雲間から青空が見えてきた。「コリャー後生がいいなー」と冗談。石崎町、松代修也家に伝わる幕末の名船匠・続豊治作仏壇の由来と、松代家譜について大森先生から説明あり、時間の関係上、仏壇を見ることができず、同家前に暫時停車。汐首岬辺りで下車、幻の鉄道戸井線を見る。不開通の残骸―崖沿いの石垣や、コンクリートの高架橋が汐風にふかれている。交通不便な住民の声と、軍事の輸送面から着工されたとも伝う。戸井町役場に到着。山田学芸員殿が廊下伝いの郷土資料館に案内し、道文化財の「板碑」や諸々を説明してくれる。展示品は、漁村にふさわしい衣食住、漁網漁具、磯舟などの数々である。
「板碑」は14世紀中頃、北渡し戸井館を築いた岡部氏の造立という。父母の菩提を弔う梵字碑で、本道では数少ない一つ。衣食住などの展示品は、かつての生活状態を後世に伝える物一次代生活の活用資料ともなるもので、これまた広い意味での文化財とも思う。
道を少し戻り、戸井高校付近にある戦争の遺物、コンクリート造りの弾薬庫を兼ねた防空壕を見る。浜手より庫内まで地下道兼塹壕が通っている。庫内は30平方mほど。外塗りの保護色が目を引き戦争を思い出させる。汐首岬辺りの高台に太平洋戦争の砲台があったと。なるほど津軽海峡を挾む一番近い岬は、汐首と大間である(約16キロ)。近いといえば約170年前、汐首岬に台場を設けた記録がある。尻岸内町に入る手前で、浜の露天風呂を見る。温度37度C位。日浦灯台に行く。岩石層を成し、しかも屏風のようで奇観なり。天気がよければ、なおさらすばらしい眺めだったろう。S26年3月完成の光力5000燭光、付近の漁船を守ってくれる。女那川地区の生活会館に着くまで、会田が古武井高炉(熔鉱炉)について一言。同会館で昼食。同町教委の守山課長殿から高炉の資料と町勢要覧をいただき、かつ同氏の歓迎挨拶、町勢などについて話があった。
案内で道立自然公園恵山にある郷土博物館を見学。戸井町と同様な衣食住の品々、また有名な恵山遺跡での出土品、高炉の資料など展示されている。戻って古武井川沿いを上ること(上流に向って)約1キロ。今では滅多に見られない吊橋を危なげに渡る。約100m戸井側に、道文化財の洋式製鉄の高炉跡がある。跡といっても基礎石垣と、水車動力源の引水の大穴があるのみ。付近には「史跡古武井熔鉱炉」と、指定理由を刻んだ碑が立つ。S42年に指定をうけた我が国構築二番目の高炉。第一番は薩摩藩、三番目は成功の南部藩次は仙台藩の順。あとの雄藩と幕府の韮山村、王子村は、製鉄は行わず、「反射炉」という設備で、主に銅材を精錬し鋳砲した。
ただし、佐賀藩は、欧州の高炉銑を用い、反射炉で鋳砲し、まずまずの成功を収めている。高炉の残骸が現存している所は、古武井と釜石の橋野だけ。鉄の記念日12月1日は、南部の製銑(原料は岩鉄)成功日をとっている。エゾ地高炉は、海防の兵器と「箱館通宝」の原鉄
材を造ろうと計画し、安政4年(1857)末に着工した。だが製銑(製造鋳物鉄)は、うまくゆかず、かかる間に暴風雨となり大破、復旧資金などで放棄した。着工一大破まで足かけ6年、なぜ長い間製銑できなかったか、など数々の疑問を残している。
さて、案内で女那川地区の「煉亙製造場」跡を見る。ここは木製の標柱あるのみ。近くには「仮の高炉」「タタラ製鉄所」があったと聞くが、はっきりした場所などは確認されていない。女那川の施設は、古武井より先に出来たもので、煉亙は高炉用、「仮の高炉」はテストの製鉄炉である。ここで守山氏と別れを告げ、がビ野に通ずる汐泊川沿いの道道172号線を走り湯川電停に出る。参加者に今回の感想、今後の見学希望などを聞く。その一人が言う。あまり知られていない函館東部方面の史跡もあるので、やって欲しいと。また女子短大生から、参加の感想、自分たちの新撰組零番隊(会員35人)の紹介などの話があった。湯川、五稜郭で希望による各自の下車。16時15分ごろ市役所前に到着、解散した。
終りに、とかく忘れがちな身近かにある遺物、史跡などを”知り学んだ”こと。会貝相互の親睦を更に深めたこと。また新撰組の会との交流のきっかけとなった等々今回の大きな収穫であったと思う。
(1)碑
(2)碑
▲上記碑は戸井町の板碑。北海道に現存する五基の内の二基。
▲古武井熔鉱炉跡の碑の前で……。
板碑とは…石の板で造った卒塔婆。室町時代を中心として関東一円で作られた。
川嶋龍司氏!会田金吾氏!武内収太氏!受賞お目出度うございます
◎川嶋龍司氏―建築士会連合会長賞受賞に輝く。
昨年10月22日建築士会全国大会に於て長年社会に貢献した業績や古建築の調査研究が高く評価され、建築士最高の栄誉である建築士会連合会長賞を授与されました。函館に於て初の受賞でもあります。同氏は教師としての多忙にもかかわらずライフワークとして市内の古建築の調査、更にそのルーツを求めて全国各所へのフィールド活動は学界でつとに高く評価されて来ました。西部地区保存が急がれている函館にとって、今こそ同氏の学識経験が求められている時はありません。著書に「はこだての文化財」があり、その他研究文献多数は市民の知る所です。
◎会田金吾氏―昭和56年度道文化財保護功労賞に輝く。
昨年10月31日今井道雄北海道文化財保護協会長より記念の盾を贈られ表彰されました。同氏は51年に道内各地の庚申塚(こうしんづか)を足で調べた”庚申塚縁起話”を著作、55年には蝦庚(えぞ)地の警備の為幕末に来道した東北諸藩の兵器や防備の実際を調べた”蝦庚地鉄砲伝来と北辺防備の大砲”56年には”弁天台場と五稜郭の土石工事”を著作し今日まで足を使い丹念に資料を集めた事が高く評価されてのこの度の受賞です。
◎武内収太氏―全国初の博物館職員表彰受賞に輝く。
昨年11月5日文部大臣より、博物館法制定30周年を記念してこれまでの博物館活動に顕著な功績を認められ表彰されました。同氏は昭和23年から18年間、函館市立博物館に勤務、同27年から館長として、同30年開館の五稜郭分館建設、同40年の本館建設に尽力し、箱館戦争関係資料等の収集に努力、更に考古学者として道南各地の遺跡発堀に力を注いだ。同42年から47年迄北海道開拓記念館の開館業務に携わる。同35年から同42年迄北海道博物館協会会長を歴任。この度の栄誉は運営、研究、地域教育に尽力した功績が高く評価されたものです。
会のあゆみ <56. 5.12~57. 2.17>
5.12 運営委員会
5.23 56年度 第4回定期総会開催
5.27 定期総会結果報告書発送
6. 1、 7.14、 8.11 運営委員会
8.27 古建築物スライド映写会(※雑考の会中間報告)
8.29 ふるさと写生野外展打合せ会議
9. 1 ハリストス正教会で草刈清掃奉仕及び見学
9. 8 運営委員会
9.23 ”第2回ふるさと写生野外展”開催
10.10、10.13 運営委員会
11.15 第3回道南の史跡探訪会(戸井、尻岸内地区)
12. 8 運営委員会、編集会議(12/8~2月末迄数回)
12.23 函館の町並みを美しくする新春チャリティパーティー実行委員会
1.12 ”チャリティパーティー”実行委員会
1.28 第4回チャリティバーティー開催(国際ホテル於)
2. 6 学習会開催(NHK集会室於)
事務局だより
事務局長 工藤 光雄
☆ハリストス正教会の見学及び清掃奉仕は、合憎の台風で8月23日を9月1日に延期し行われました。当日本会建築雑考の会、函館走ろう会の皆さんの参加を得て小雨降る中、同教会敷地内と周辺の散策路の雑草を2時間に亘り刈り取り、快い汗を流しての一日でした。
☆”第2回ふるさと写生野外展”を9月15日開催しました。秋晴れの一日参加小中学生一般300名が旧函館郵便局局舎の周辺街並み、港などを写生、予想以上の成功裡に終了しました。指導に当った諸先生方に深謝します。
☆”第3回道南の史跡探訪見学会”が11月15日戸井、尻岸内両町を訪れました。時期的に寒かった為、参加者少数でしたが、和気藹々の収穫の大きい一日でした。戸井、尻岸内両教委の御案内を戴き、厚く御礼申し上げます。
☆”第4回函館の町並みを美しくするチャリティーパーティー”を1月28日午後6時30分より函館国際ホテルに於て開催しました。音楽とダンス、スライド上映、オークションに約400名が集い楽しいタべのひとときを過ごす事ができました。詳細記事は次号でお伝えします。
☆”明治十二年の大火と黒田清隆” “函館の自由民権運動”の学習会が大森好男氏高嶋小太郎氏をお迎えして2月6日NHK集会室で開催されました。詳細記事は次号で…。
☆会費未納の方は至急振込み下さいますようお願いします。
(※函館630へ振替)
●編集後記にかえて
*時のすぎ去るのは連い。いつの問にか本紙も10・11号(合併号)を迎えた。言わば一つの節を迎えた事になる。例えどんなに小規模でも編集に携わる者の一人として感慨深いものがある。振返ってみると創刊号から編集での様々な事が甦ってくる。執筆者、題字、カット、イラスト、資料提供、更に印刷面でのもろもろ、会場提供、そして会員の皆様の支え、と実に多くの方々に励まされての継続である。思えばどの会報に於ても依頼を快くお引受け下さる方ばかりでした。これらの恵みがこの会の最もつよみではなかったかと思うのです。紙上を借りここに改めて厚くお礼申します。今後に於てもこれ迄をワンステップに編集員一同(多田、田尻、田中)よい紙面づくりに心がけるつもりです。どうか従来にも増して一層の協力をお願いします。
*さて、暦の上では啓蟄を迎えたようですが、まだまだ寒さ厳しい折、会員の皆様には流感などに罹りませんようご自愛下さい。今年度の事業は大体終りかけていますが、又新年度の事業の中で会員の皆さんの参加を望んでおります。現実間題として年会費だけ払って催し事に参加しませんと、いつの間にか会員でない錯覚に陥ってしまいがちです。話しを戻しまして、本紙に対する意見、寄稿等もどしどしお寄せ下さい。末尾に会報発行の遅れをおわびします。<田中>


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