函館における街並み保存の観点
運営委員 奧平 忠志
街並み保存の観点は、歴史的建造物群の保存にあるが、建造物群が連担した景観を呈していない場合には、貴重な歴史的建造物を中心とした街区の調和のとれた保存にあると言える。
わが国の街並み保存が叫ばれるようになった歴史は浅く、まだせいぜい15年程度である。しかも、保存のための条例を制定した自治体の数も西欧諸国のそれに比べると、きわめて少ない現状である。こうした街並み保存に対する意識の貧困さは、西欧諸国では自由な市民意識からの発想が古くから定着しているのに対して、わが国では今日でさえ自由な市民意識の発想が許されないところに由来する。慣習、伝統などの精神的な側面での継承は、スムースになされてきたが、物質的な側面での継承は軽視されてきたことも保存意識の欠落の要因となっているのではあるまいか。
昭和43年に金沢市が保存条例を制定し、急速に進行する都市開発に伴う伝統的環境破壊を食い止める最初の試金石として評価されたが、内実は指定された保存地区が果して保存するに相応しいかどうか疑問のあるものであった。その後倉敷市、妻籠などが条例を定めて本格的な保存の動きが見られるようになった。特に妻籠は過疎化する町をどのように再生させるかの「新しい街づくり」の観点からこの問題に取組んだ点が注目された。
ところでわが町函館における街並み保存の現状はどうであろうか。市は昨年から保存条例制定のための検討に入るとの公式発表をしたが、その後のうごきについては市民に伝えられていない。旧渡島支庁舎の改修を含めた元町公園構想の進展はみられるが、街路もしくは一部の建造物の保存がこの構想のねらいであり、街区保存まで延長した構想ではないだけに物足りなさを感じる。
西部の歴史的建造物についてはすでに川嶋先生、北大の足立先生が調査をされリストアップされているが、その分布はきわめて広範囲にわたっているため、それらの建造物をすべて包含する保存地区は到底考えられない。そこでまず問題になるのはどの地区を保存地区とするかという点であろう。この問題を検討するにはさらに次の点に留意しなくてはならない。まず第1にどの歴史的建造物を含む街区を保存地区とするかの市民的なコンセンサスを得ることである。次に、指定された街区の住民が保存地区に指定され、条例によってさまざまな規制が加えられることに100パーセント合意し、かつ協力してくれることである。
しかし、この留意点が実はきわめてむづかしい問題である。例えば、どの歴史的建造物が重要であるかの価値判断は、個人によっても異なるし、建造物だけでなく、周辺の景観を配慮しての街区指定となれば、さらにその価値判断は多岐にわたる。また、指定された保存地区の住民への保存の意義の理解、財政的な裏付けなどなければ、指定そのものが何らの意味をもたなくなる。
函館の場合も、すでに保存地区を指定した他の市町村と同じように修景保存がその手法となろうが、町家を中心とした地区よりは商家を中心とした地区の保存が現在の景観からみて適切であろう。その場合、当然対象をされる地域は臨港線に治うた地区が有力となる。ただ、商家を中心とした地区を指定する場合は、将来にわたってそこに住む人の生活が保障されなくてはいけないし、営業活動の活発化が前提となろう。特に、臨港線に治うた地区は廃墟に近い景観を呈する部分もあり、人の流れを吸収するだけの魅力をもたない。したがって、保存と同時に何らかの開発のインパクト(観光、レジャー)となる要素をもたせなくてはなるまい。
このように函館における街並みの保存は、単なる保存であっては成功しまい。妻籠の例を見習った「新しい街づくり」の観点が必要である。保存地区の指定、保存条例の制定と同時に西部の経済活動をどのように再生させるかの観点に立った「西部の街づくり計画」を進行させることが必要ではなかろうか。
第4回チャリティーパーティー参画と参加
建築雑考の会Σ 能戸 彰
”函館の町並みを美しくする新春チャリティパーティー”も今年で4回目で定例化しつつあるようですが、私が知ったのは、一昨年のパーティーに参加したのが始めての事でした。その時は歴風会ほか野人の会など4団体ほどの共催で、それぞれの代表の方が挨拶されたことを覚えています。雑考の会が誕生して2、3年目の時でパーティーの主旨に大いに賛同し、いつかこのチャリティパーティーの共催団体の一つとして参画したいと考えたものでした。確かに今回のチャリティパーティーには雑考の会が共催という形にはなったのです。チャリティパーティーの実行委員会が設けられ、私達の会からも4人委員として出席しました。私達にとっては実行委員会はパーテーに関する決定機関のように思われました。つまり実行委員会で決議した事が決定事項だと思ったわけです。ところが、そうして決定した事が翌日には一部の委員の相談事で変更になったりで、実行委員会の位置づけすら明確ではなかったようです。ともあれ、パーティーは成功に終わったという見方が一般的なようですが、内部的には大きな問題が残っていると言えるでしょう。私達の会に集まった意見を集約してみれば「オークションとスライドだけはチャリティーの主旨に合っているようだが、このパーティーは函館の一部の知識人の集いではないのか。」「ダンスのみが浮彫りとなり、ダンスパーティーが目的なのか。」「歴風の活動を広めるチャンスでもあり、また若い会員を求めているにもかかわらず会費が高く、主旨に賛同できても参加できない。」等、多くの問題をかかえているように思われます。チャリティパーティーの主旨・目的を具体的なスローガンとし、共催団体の意志統一する事から始めなければならないのでしょうか。そうしなければ共催者にとって、チャリティパーティーに参画するのではなく、ただ参加して共催団体として名前を連ねるだけのものになってしまうのではないでしょうか。
チャリティーバーティの意義~労多く報い少ない役割りに期待~
朝日新聞函館支局長 坂井 秋彦
今年のチャリティーパーティーで印象深かったのは古い民家や土蔵のスライド上映だった。「函館の顔」を作っている数多くの無名の建物の重みを、改めて思い知らされた。西部地区には和洋折衷の独特の民家や飾り付きの石造商店がいたるところに残り、落ち着いた味わいのある町並みを作り上げている。北海道開拓史の原点、外国に開いた港、北洋漁業の基地として発展したこの町の歴史がそこに息づいている。しかし今、老朽化した民家は次々に取り壊され、新興宅造地でおなじみのモダンなモルタル住宅に建て替えられている。当然のことだ。だれだって古くなった暮らしにくい家を新しくする自由を持っているのだから。
歴風会が発足して満4年。歴史的な風土を守ることが取りも直さずこの町に住む人々の生活を守ることだ、という信念と情熱こそ、この市民連動の支えであり、出発点であった。5年目を迎えた今、運動はひとつの節目にさしかかっている。
旧渡島支庁舎や北洋資料館の問題では、行政のゴリ押しに今歯止めをかけねば函館に未来はない、という危機感の中で、街頭署名に市民の共感が集まり、市や議会の厚い壁と闘いながら一定の成果を収めた。町並み写生・野外展やパーティーといった恒例行事も、それなりに定着してきた。ところが一方には、無秩序な町並み破壊が少しずつだが確実に進んで行く現実がある。旧函館郵便局舎の保存策のメドも立たないうちに、青函連絡船の存廃問題も起きている。
先人の築いてきた歴史と伝統的文化の土壤に、新しい町を再構築して行こう、という立場からは、これは一刻も待てない、揺るがせにできない事態だ。函館に住む全ての人々が快適に安全に自由に暮らして行ける町作りとはどうあるべきなのか。その論議を今こそ小路の隅々にまで巻き起こさなければなるまい。
函館の経済は、構造的慢性型不況の中でかつてない厳しい状況にある。市の財政もふくらむ借金でパンク寸前の有様だ。将来はあまりにも不透明であり、市民は不安を抱きつゝ、きょう明日の生活に追われている。
町再生への道筋と手だてを市民の手で作り上げて行くけん引車として、歴風会に労多く報いの少ない役割を期待したい。
第4回チャリティーパーティー 益金の使途報告
*参加者42名 *収入2,285,200円(オークション125,200円含む)
*支出1,276,270円 *益金1,009,336円
- 市に寄付(旧英国領事館の修復保存)150,000円
- 函館の古建築物スライド制作150,000円
- 守る会主催講演会100,000円
- ふるさと写生野外展200,000円
- タウン紙「函館通信」発行300,000円
- 函館市文化財保全基金として積立109,336円
文化ぷりずむ 街並に連絡船の灯をいつまでも…
青函連絡船を守る会 ”Theらしん”編集員 ふな じろう
「モチはモチ屋」と専門家を大切にする気分が根強くあります。これが過去にどれだけ一般庶民を苦しめたか、お互いに自覚していないのは残念なことです。戦争は戦争屋に、政治は政治屋に等々が当然と考えられ、クロウトの暴走を許して来ました。海底に穴をあけて汽車を通すなどは、いわば専門家のロマンであっても、旅を楽しもうという人達のそれではありませんでした。
更に完成のあかつきには連絡船を廃止するというのです。いったい、いつ、誰れがこんなおろかな計画を建てたのでしょうか。しかも政治的産物の「トンネル」を「道民の夢」などとすり換え、天文学的工費をかけ、加えて毎年1000億近くの使用料を鉄建公団に支払わねばならぬとは。それでいて本州と北海道を結ぶ玄関口である青森も函館も決してプラスにならないのですよ。「お国のため」とかいう「中央の論理」にふり廻され、地元が犠牲になる理由はないのです。
トンネル着工以来すでに18年、われわれ一般市民は連絡船が廃止されるなどとは、強いショックとして受け止めてはいませんでした。
まさに、「おそかりし由良之介!」でしたね。地方都市の個性が失われつつある今日、どこかで歯止めをかけねばなりません。日本国中どの町も一様化され、東京の亜流と化しつつあります。なる程生活の近代化に伴う進歩もありました。しかし意味のない模倣も多かったのです。都市の個性は、その土地をはぐくむ自然と、その中で生活してきた人間によって形成された歴史的産物といえましょう。
青函連絡船はまさにそれであり、津軽海峡のかけ橋であります。つまり時代遅れの乗り物などではないのです。航路は海にまたがった通路なのです。その性格から見て、経済性などという次元で考えるべきものではないのです。連絡船に乗ったこともあまりなく、将来利用しようという気持ちもないような人達によって決められようとしている「廃止」に反対し、存続運動を始めた原点も又そこにあるのです。「連絡船を守る会」では講演会、討論会、署名運動、更に6月20日の「連絡船フェスティパル」等々、多様な運動を進めて来ています。われわれに呼応して青森の人達も立ち上りました。「歴風」の皆さん、函館の街並みの背景に連絡船の姿が見えなくなるのをふせごうではありませんか。すでに実績を得ておられる皆さんの強力なる支援と参加を希望するものです。
新著紹介 『黒船』ノートから
*成田 千秋
ペリー提督六代目の孫、ジャック、ティルトン氏がこの八月に来函するという。熊親爺のあだなを持っていたペリーが、黒船艦隊を率いて箱館へ入港したのは、 今から百二十八年前、安政元年の、ちょうど端午の節句の頃であった。
黒船といえば、 日本ではこの船のことだと思われがちだが、 実は当時の洋船はまだ木造船の時代で、腐触を防ぐため、船体に黒チャンを塗っていた。だから洋船はみな黒船だったのである。
小説「黒船」の主役は続豊治だが、この小説の底流は、絶えずエゾ地周辺に出没する得体の知れぬ黒船どもであり、若い頃の豊治の人生に深く関わっていたロシヤのフリゲート艦ディアナ号であり、沖の口役所の下僕となって内偵し続けた異国の船々であった。つまり、陰の主役は「黒船」なのである。
―著作裏ばなし―
函館に赴任してこの街の美しい風土と人情に惹かれ、良家の娘と結婚それが幕末の俠雄柳川熊吉四代目の孫娘であった。
異国情緒とロマンに満ちた箱館であった。それが熊吉を通して、私には身近かなものになり、世界情勢の中で激しく揺れ動く日本の姿、鎖国政策と海難事故、そして船匠統豊治の姿が小説の構想となって浮かび上がってきた。歴史小説で誰もが突き当たる壁は史実とフィクションの問題である。豊治の青春時代はかなりフィクションで彩った。
六十の手習いは遅々として進まず、もともと船についてはズブの素人である私にはまず日本の船の歴史、そして造航史から調べてかからなければならない。三十代から五十代という充実した時代を棒に振ってしまったことが今にして悔まれた。
帆船の操船法で悩んでいた折、好運にも海土丸が入港し、早速一等航海十平井顕氏にお目にかかり教えを請った。難船の描写には、イカ漁船で時化に出遭った経験が役立った。
守るにたる歴史と風土を持つ函館を誇りとしている。
略歴 ▼明治四四年秋田市生まれ。弥生小学校教員を振り出しに教員生活を長いこと経て、ふたば学園を最後に退職す。
※著書「黒船」はあらかた売り切れようとしている為、本会で申込を受付けられないのが残念である。(編集部)
《*去る2月6日NHK集会室於学習会より》~その1~自由民権運動と函館
函館中部高等学校講師 高島 小太郎
自由民権運動は、明治前半期に社会を風靡した政治運動であるが、より幅の広く根の深い社会文化運動の流れに立つものであった。その目標は地租の軽減。不平等条約撤廃などもあるが、最大の眼目は憲法を制定し民選国会を開いて人民参政の実を挙げる所にあった。この運動は政府を突き上げて、結局国会開設に踏み切らせたのが明治14年(1881)の政変で、開拓使官有財払い下げ事件を通じて北海道が踏み台となっている。特に函館区民の民権擁護の徹底的抵抗が政局転換の決定打となった。
国会開設運動は、明治7年旧参議板垣退助・後藤象二郎や洋行帰りの古沢滋等の民選議院開設の請願を起点として、在野の士族、豪農、富民などの地方名望家たちを巻きこんで、明治13年3月の国会開設期成会には、22府県から8万7千余の署名を集めて中央政府に請願するまでになった。時の政府はいわゆる薩長藩閥政権で、枢機をにぎる岩倉右大臣をはじめ諸参議は民選国会には極めて消極的で、反対論に近い立場のものもいた。閣内で最も有力な伊藤博文は時勢に対応して、井上馨とともに漸進出義の立場をとったが、急進的立場の参議筆頭大隈重信とは、ヘゲモニーを争って対立していたから閣議の一致もなかった。
函館は明治13―14年ごろは人口4万足らずであったが、東京以北では1―2位を争う商業都市であった。開拓使官船の発着点として海陸運送の要地を占め、京浜地方のニュースが最初に本道に聞えて来るのも函館であった。安政以来の貿易港として米英露清人が居留するので開明の気にもあふれていた。区内の豪商たちは、開拓使長官黒田清隆の信任あつかった常野正義や財閥杉浦嘉七、四天王と尊敬された豪商渡辺熊四郎、平田文右衛門、今井市右衛門、平塚時蔵をはじめ、時勢に対する批判力をもった多数のブルジョア層が成長しつつあった。明治6年には無料の新聞縦覧所を設立し、同じく11年には函館新聞が創刊され、寺子屋以来の識字階級の成長とあいまって中央の情勢把握や時代感覚は鋭敏であった。
ただ火災の多い町で、明治11年と12年の二度の火災で、目抜きの市街3000戸以上を失い、開拓使の手厚い援護によって復興しているので、これは黒田長官の特別な温情によると思いこんでいる上層市民たちは、黒田の前に頭の上らぬところがあった。けれども函館新聞社長山本忠礼らの民政批判の啓発もあって市民の政治的自覚も高揚したので、明治12年千葉県人桜井静の国会開役運動勧誘には目も向けなかった区民も、新市町村制による区議会開設を請願し、14年1月には北海道でただ一つの区会をもつ自治都市に成長した。
明治14年(1881)になって北海道開拓使官有財の払い下げ事件が、新聞によってスクープされると、北海道、東京を巻き込んで天下の大問題となった。函館と切り離すことのできない官船や常備倉をはじめ、札幌の醸造工場、製麻工場、日高の牧場、根室の罐詰工場、横浜・敦賀等の官舎その他2千万円に及ぶ国費を注入したものを、一括して39万円無利息30年賦という捨て値段で、腹心の天下り官僚に払い下げられ、その裏に政商五代友厚らの黒い利権あさりの手がからんでいるものと解釈された。全国の新聞は一斉に政府の横暴を非難し、これを国会開設要求に結びつけて自由民権論は火を噴いた。
函館の有志は急ぎ安全社という運輸会社を創設し、玄武丸・矯竜丸などの官有船と区内豊川町の函館常備倉の払い下げを願い出て、8月東京から来函した黒田長官に懇請した。黒田はこの時、これはすでに払い下げずみとして拒否したばかりでなく、各新聞から非難されていた憤懣(ふんまん)もあったためか冷笑をもって新聞記者を侮辱した。しかし区民はおさまらない。区会副議長安浪次郎吉らは区会の議決によって常備倉の払い下げを再願したがこれもむなしく拒否された。米穀の需給調節、非常の災変に備える常備倉が函館以外の商社の手に入ることは、区民生活の死活問題で、山本忠礼や工藤弥兵衛、林宇三郎らの同志9人は区民総代として重ねて請願をつゞけた。ついに、たまたま巡幸で函館にお泊りの明治天皇に供奉(ぐぶ)した有栖川左大臣の宮と大隈参議に面謁して直接上書し援助を懇願した。
熱烈なこの運動をきっかけに国内の世論は沸騰の極点に達した。追いつめられた政府は結局10月12日の政変でこの局面を安定させた。すなわち開拓使財産の払い下げの停止を決定すると共に、国会を明治23年開設するとの詔勅を出した。一方大隈参議とその一派を政府から一掃して閣内の統一をはかった。これは国内の多数を占める穏健な漸進派を政府の味方につけると同時に、民権論急進派勢力を分断することにも成功したのである。
この経過を見る時、函館区民の執ような民権擁護運動が政局を一転させたとしても過言ではあるまい。函館の歴史上、市民の活動が中央の政局にこのような衝撃を与えたことは一度もなかったことに感銘させられる。
開拓使は山本忠礼ら同志9人を、区民総代の名称を偽って使用し、官庁に反抗したものとして裁判にかけ、山本は100日の下獄、同志は贖(しょく)罪金各6円75銭を科された。この報復的裁判は百世のもと国民の批判をまぬがれないであろう。
昨年は明治14年政変から百周年に当った。多くの人々は、この年の自由党結成の意義を強調して自由民権運動百周年の記念指標とし盛大な記念運動を行った。我らも大いに共鳴すると共に、函館の民衆運動が明治14年の政変に深く関与して自由民権運動に果した役割を高く評価し強調したいものである。
《学習会》~その2~ 明治12年の大火と黒田清隆
函館中部高等学校教諭 大森 好男
私は函館の三大大火として、明治11・12年、明治40年、昭和9年をあげている。かつて函館が大火の多かった理由として、風が強いこと、家屋が粗末なこと、道路が狭く曲りくねっていたことなどがあげられる。そこで大火の防止策を考えるとき、強風については地形上如何ともしがたいが、家屋と道路については、改良によって大火の防止が可能である。それを実施したのが明治11・12年の大火後であり、開拓使長官黒田清隆の英断であったことはあまり知られていない。
明治11年(1878)11月16日、鮭溜(たなごま)町(現入舟町)から出火した火災は、折りからの強い西風によって弁天町あたりまでの一帯をなめつくし、焼失家屋は954戸に及んだ。黒田長官は函館大火の報を聞くや、直ちに鈴木大亮書記官を函館に派遣し、時任為基函館支庁長らと焼失地の街衢(がいく、街並み)改良について協議させた。黒田長官は、北海道開拓の推進のためにも、その要となる函館の繁栄が不可欠であることを痛感し、これを機会に思い切った改良を指示したのである。改良の要点は次の二つである。
①道路は縦・横の直線とし、道幅は主要道路10間(1間は1.8メートル)以上、その他は6間以上とする。それに係わる私有地は相当価格で買収する。
②主要道路に面した家屋は石造などの不燃物とし、それが不可能な場合は塗屋(土造)とすること。そのため函館山からの石材搬出を認め、また資金の低利貸付けをする。
時任支庁長らは、常野正義函館区長はじめ区の総代人、それに被災者の代表などを集めてこれを伝え、今この改良を断行するのは千載一遇の好機であり、これを逃せば永久に大火から免れないことを説いて協力を要請した。そして道路の拡張により宅地が狭くなったとしても、家屋を二・三階にするとか、床下に穴蔵を設けるなどの工夫により補えると説明した。この穴蔵というのは傾斜地の利用方法で、この年黒田長官がウラジオストクで見聞したものという。参集者一同この趣旨に賛成し、ここに最初の街衢改良が行なわれた。
それから一年後の明治12年12月6日、またしても大火に見舞われた。このときは堀江町(現末広町)から出火し、東の強風にあおられて町の中心部へ飛び火し、町全体が火の海となった。焼失家屋は2,245戸、前年の大火と合わせると、当時の函館市街地のほぼ全域が灰じんに帰した。しかも今回は町の中心部も含まれているため被害はきわめて大きく、これにより函館は一時火の消えたような寂しさだったという。
ところがこの大火で、街衢改良の地域は一戸も類燃しなかった。これは改良の効果がいかに大であるかを物語るもので、今回の焼失地もその必要をだれもが認めるところであった。黒田長官は函館に来て焼け跡を視察し、自ら新しい道路図を作製した。それは従来の道路を基本としながらも、屈曲部分を直線にし、道幅は6間より12間、さらに20間の防火線を設定(二十間坂・基坂)したものである。また中心部にあったいくつかの寺院(高竜寺、称名寺など)を山麓へ移すなど、かなり思い切った改良案であった。この案に対し区民も賛同し、ここに大々的な街衢改良が実施されることになった。
かくして二度の改良によって函館の市街は全く面目を一新し、清潔で整然とした街並みとなった。それはまた人の心にも活気をもたらし、函館の飛躍的な発展をもたらしたことは周知のとおりである。
私たちは数年前から西部の街並み保存を呼びかけて来たが、新年度からは函館市も本格的に取り組むことになりました。その西部の街並みが、黒田清隆の英知と英断によって作られたことを忘れないでいただきたい。
☆新選組か?☆新撰組か?
新撰組零番隊 参謀愛人28号 堀越 康子
曽て、天下の新せん組は”新撰組”か”新撰組”か?〓か〓かで、今だに興味をそそられる事しきりのようです。これ迄私が仕入れたあらん限りの情報を総合すると、会津藩の公用文には”新撰組”となっており、隊の印鑑には〓を使って”新選組”となっているそうです。
では当時の隊士のメンメンはというと、どちらかというと〓を好んで使用されたようです。しかしその時々に於て夫々に使っていたともいわれています。
一説によると先に〓が使われ、後に〓が使われ出したという事ですが、かの近藤勇局長や我が愛する土方歳三副長はというと、やはり両方を使っていたというのです。
当時のほとんどの人がその時の好みによって両方を使い分けていた。この辺りに当時の時代的自由さを感じて面白いと思うのです。
諸説粉々の中で結論的には、どちらでもよいという事になる訳ですが、我が零番隊では「隊誌」に〓を用いていますが、個人的には皆それぞれの理由をもって、やはり、こだわらずに自分の好きな方を使っています。
さて、歴風会のおのおの方は、如何ご考察をお持ちでしょうか。専門家の解説を伺わせて戴ければ、幸いと思います。因みに私自身は、両用です。
末尾に話しは飛びますが、旧歴五月十一日は、くしくも、我が愛する土方歳三の戦死の日に当り、箱館戦争における最激戦の日でもあります。
歴史の散歩 シリーズ《9》 古建築をたずねて2 ~古きよき時代からのメッセージ~
函館工業高等学校プロジェクトスタッフ
3年建築科 石川 勝、神林 稔
2年建築科 小笠原 清一、金田 徳明、雲井 一紀、斉藤 将俊、佐藤 晃
1年建築科 五十嵐 潤一、川崎 実、菊地 賢行、菅原 千恵、平野 妙子、若林 武司
【4】加藤時計店
末広町18番地木造2 時計塔付 明治40年代
本港唯一の時計店として業務の隆盛なる販路の広大なる同店は同業者で嶄然として頭角をあらわしたと伝えられる。
同店は末広町79番地(丸井呉服店の側)にあり、時計類および附属品ならびに時計修繕用具、指環、眼境、寒暖計類等の卸小売だし品質に応じて確実な保険証を付け、猶熟練の職工を使用して時計を修繕し、かたわら両換をもやっていた。時計、指環、その他の装飾品の新形で流行をつくった精巧美妙の製品を作り出し、優等品から実用専一の堅牢品にいたるまでがある。
▲焼失直後の写真。現在は川越駐車場になっている。
▲昭和五十五年焼失す。それ以前は靴店として利用。昭和四十八年より川越電気店所有。写真から察するに当時は札幌の時計台に勝るとも劣らない時計台だったに違いない。戦後は名物の時計台は姿を消し、建物のみ残っていた。
【5】二十銀行函館支店
明治18年5月東浜町に第二十国立銀行函館支店として開業。
この銀行は、荷為替に重きを置き、北陸地方に支店を有して連絡が便利であったために商業上裨益するところが大きかった。
のち株式会社二十銀行函館支店と改称。
大正元年本店が第一銀行に合併されたので、支店も第一銀行となった。
▲変遷を経て現在は日銀函館支店
▲明治12年開業された瀟麗な建物。
【6】龍紋氷室函館支店
本邦製氷業元祖 北原鉦太郎
萬延元年10月兵庫県有馬郡三田町に生る。
藤助の長男。明治初年父にともなわれ函館に渡り本邦製氷業の元祖として有名になる。
中川嘉平の経営にかかわる函館製氷所に入り其業に従事する。明治29年主人嘉平の東京に引き上げるに及び該製氷所全部わ継承し、以来専らその経営に当りて今に及ぶ製氷年産額1,500トンに達す。
性格温厚にして信仰深く当代稀に見る人格の人なり。
▲現在はホワイト食品付工場として再利用されている。
▲明治時代の五稜郭堀の氷の珍しい切出し作業風景。
下▲隆盛をきわめた同店の当時の建物。
【7】凾館病院
函館病院は幕末に市中の医者が協力しあって妓性病治療の目的で創立した箱館医学所がその前身だが、明治になり箱館府民政方病院となり、 箱館戦争のときは榎本軍に占領され開哲使時代となって官立となった。のち県立・庁立・公立・区立と変わり、大正11年市立となっている。初め姿見坂上にあり、明治4年愛宕町(現東坂上)に移った。
▲現在の建物は、明治期の11、12、40年の三度の大火。明治33年自失による焼失と、何と四度にもわたる焼失を受け乍らも、大正11年再建、市立となった。
▲明治4年愛宕町(現、東坂上)に新築した建物。同11年の大火で焼失する。
※前号に引き続き函館工業の皆さんによる調査結果をシリーズ2で掲載しました。なお感想を編集部迄お寄せ下さい。
やませ 誇れる景観保存への住民参加と理解
会員 小玉 陽三
萩や倉敷、そして高山など、歴史的建築物群を主体として、その街並み保存に、市条例の制定をも見てそれぞれに成功をして居る実態を目にする時、行政の指導力もさる事ながら、それを巧みに生かして生活に取組む地域住民の熱意と姿勢に驚かされます。しかもそれは、それに裏付ちされた誇り高い郷土の歴史と、脈打つ文化的伝統に対する深い愛情が、滲み出す情緒を伴って伝わってくる。考えるに、これらはいずれも、それが保存と復元にあたっての息吹として、現実の生活と商行為を伴っての採算性が、気候や、耐久性の高い建築物との考慮の中にあって、適す事が深く理解されて居る事と、そうする歴史性の表現に喜々として参加できた、地域住民の大きな誇りがあったからでありましょう。
これらに関し遅々としている当市にあっては、今更ながらこれに近づく実現の難かしさに思い知らされ、考えてします。確かに、それらが保護や保存は直線的には、法的条例の制定や、それに伴う助成措置等の促進や充実加えて周辺参加も含む擁護策等の早期確立が望まれるものであり、異論を挿む何ものもありません。中でも歴史性の高い。点在型の古建築物や、芸術的香りの高い有名建築物については、一日も早い保全への対応を迫るものです。
しかし問題は、函館山を背に坂を挾み、港に面して拡がる景観的建築物群を、その主体となる街並み保存を、そこに住む住民の参加を得て成すには、如何にするかと云う事です。先に触れた「萩」「倉敷」「高山」のように、古建築的性格の中にも工夫をもって、現代的生活や商行為が出来るような、気候的環境や、生活構造の現代化が可能な実態にあれば良いのですか。なかなかにそう理解して頂けるには、相当の距離があると思われる当市の現況だけに、促進迄には、行政に鞭打つのみならず、市民サイドの運動をしても、具体的提案をもって積極的に繰り拡げ、その共通の理解と誇りに、一日も早く到達しなければなりません。
現にそこに住む市民の愛着に立つ、抱擁的理解を得る迄に到る、法制化や手法の論議の時間の歩みの中にも、建物と自然の融合的景観が、消失崩壊し続けて居ります。それ程、その老朽化と高度利用へ向けての箱型高層化の波は、冷たい近代建築の顔を連ねて、日増しにその美しい景観を損ねて居ります。
代表的な例では、道立西高校の近代建築への様変りです。建替える事は訳っていながらも、覆いが取られて初めて口惜しみ気付く、私も含む市民の鈍い現実の反応は、大いに反省すべき事であり、この辺に問題への関心の比重を感じます。映画にテレビに絵となって映し出される最高の情感美に溢れるあの西校前の通りは、真四角で白いコンクリートの塊の突き出しで、まさに鼻白む花しさにかられて舌打ちを覚えます。今となっては、旧度品支庁舎移設以上の問題であった筈なのにと悔やまれます。
積極的な理解や、指導にあるであろうと考えられる官公庁の建物にしても、いざ建築となると実際的な計算の中に、その姿が生まれ変る現実だけに、これらに対する提起は、一工夫も二工夫も重ねて、共感と協賛をもっての提案と運動でなければなりません。
言うは易く、行うは難しが現実ですが、いささかのアイデアを持って提案をして見ますと、(一)歴史性や。建築美性に秀れた建物を選び抜き、徹底したその価値を知らしめての紹介とPRを市民に訳りやすく行う特集等を行い。それが保存への関心を高める事です。
観光客へは版画やスケッチ画の絵ハガキ等で巡回順の番号を符すなどして紹介したいものです。
(二)景観と建築物群の調和のとれたモデル的面や、代表的な通りを選んで、○○坂通りとか、○○住宅通りと言った様な呼称を加え、その後にやむを得ず、その通り街の中の建物が新改築せざるを得なくなったとしても、その雰囲気に合せて改修したくなる様な、写真や絵をもって、ある程度の創造的演出を、画家や建築設計家の集団の参加も得て付け加え。有名通りとしてのPRを大きくして、制御を意識的に加える事です。
(三)建築設計家や実際に建てる大工さん、そして個人的に改修する家主も含め、これら街区内は勿論、広くは市内にあって、当市が誇る景観や、歴史性に添い、むしろより生かしての秀れたデザインの、建築物や、表まわりの美しさ、工夫に秀れた改修建築や。景観づくりに対して、市民の敬意と賛意を表する意味での。賞や報導等をもっての賛辞を贈るべき事も必要です。この事は誇りを挙げての振巾をもたらす結果につながる事と信じます。等々、この様に市民や、住民がその歴史や景観に競って誇りを持ち、愛情をもつに至る共感的理解こそ、住民運動がなし得る方策であろうと考えます。そうなってこそ、先進的な他市の歴史性に勝るとも劣らない、文明開化の文化都市、函館のたたずまいが潤い輝く事と確信します。
<函館市議>
街並用語アラカルト
*伝統的建造物群とは……
西部地区に対し文化庁より伝統的建造群の調査費がついたとの朗報を機にミニ情報をおくります。ひと昔前.日本がひた走った高度経済成長は空前の物質的繁栄と無限の荒廃を共にもたらしました、巨大な国土開発で長年守り伝えられた文化財が周囲の環境破壊により文化財自体の価値を失わしめる危機に立たされました。こゝに至って点的保存から面への概念の拡大が余儀なくされ、50年文化財保護法改正を迎えました「伝統的建造物群(伝建)保存地区」即ち歴史的町並みが始めて文化財として保存再生の対象となりました。伝建の特色の1つは一方的指定ではなく事前に所有者の承諾をとりつけること。市が保存条例をつくり、これを国が選定する2段構えになっていること。文化財保存が都市計画の枠組の中に組み込まれる等、画期的な歴史的環境保護政策と言えましょう。
現在、角館、妻籠倉敷川畔など17が選定地区です。町並み保存は何処でも大変な苦労を背おいます。でも上記17地区こそ苦難をのり越えた所です。守るべき函館の文化の伝承のため、行政、地区内生活者、一般市民が共に誠意を以って苦楽をわかち精一杯の知恵を出しあいましょう。=環境文化50号太田、木原両先生の言葉を引用させて頂き一文をまとめました。= (田尻)
※歴史の街、函館にふさわしいフォークソングが、このほど若い横内夫妻の夫唱婦随で出来上った。今後いろんな場で永く市民に愛唱されることを願いつつ………。
この子らにはこだてを
横内ふさ子 詞
横内 輝美 曲
会のあゆみ <57. 2. 9~57. 5.11>
◇ 2. 9 チャリティパーティー実行委員会
◇ 3.16・ 4. 6・ 4.13・ 5.11 運営委員会
事務局局だより
事務局長 工藤 光雄
★56年度をふりかえって見ると、会の行事として①ハリストス正教会の見学及び清掃奉仕②第2回ふるさとの写生野外展③第3回道南の史跡探訪見学会④第4回函館の町並みを美しくするチャリティパーティー⑤”明治12年の大火と黒田清隆””函館の自由民権運動”の学習会等が行われ、関係機関の御支援と会に深い理解をいただいた方々の御協力によって、それなりに成果を挙げたものと確信しております。新年度に向かって新しい執行部によって企画が持たれ、実施されることになりますが、会員各位のこれら行事に参加されることを望んでやみません。
★会員の皆様からの御提言、企画に対して御意見等をお寄せ下さるようお願いいたします。
★第5回全国町並みゼミのご案内’82 TOKYO
と き 昭和57年7月17日(土)18日(日)
ところ 東京都こまばエミナース(国民年金中央会館)
参加希望の方は事務局にお問い合せ下さい。
★会費未納の方は振込み下さいますようお願いします。
編集後記にかえて
*春らんまん!5月は函館中の桜がこの時とばかり一斉に開花して、まさに心地よい季節到来である。この会報が皆さんの手に届く頃は、桜前線も北の果てに散っているに違いない。さて私事になるが、今号編集は病院のベッドの上でする羽目になった。首のギブス等をかなり気にし乍ら、併し一方ではこうして編集の出来る幸せをかみしめ、どうやら総会迄には間に合いそうだとほっとする。先づは12号をお届けします。
*原稿をめぐるエピソードがたまにある。今号初公開だが、「古建築をたずねて」の資料が印刷所ゆきの土壇場でミステリーが起こった。……現存している筈の古建築と古い写真の中の建物が同一であるべき筈が同一でない事が判明。取り敢えず原稿を入れ替える等して一件落着。古い建物は往々にして大なり小なり変遷があるものだが、果して同一でなければどうしたものか。さしずめ明治の立派な建物を巡っての念入りな調査と相なるが、果してどんな解明が成されるか次号が楽しみである。
*今号の中で本会のある事業に対し珍しく対象的な原稿が並んだ。労多く報い少ない本会の役割りに期待との激励に対し片やご批判を頂戴した。編者が差出がましく何だが、もう少々事業そのものの主旨なるをご理解戴けたらなーと正直な所残念だった。文化団体は固いイメージが必要原則であるが、併しことパーティーに関しては固いだけが能ではないとも思うが如何なもの。事業自体も丸やら三角四角等を精一杯折りまぜて進めているのが実状のよう。主旨もこんな所でご理解戴けたら、今後の運動も互いに仲よく協力し合えると思う。ともかく臭い物に蓋をする事なく、様々なご意見をこの紙面で取り上げ、運動の反省点にと思う。 <田中>


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