《学習会より》オーストラリアの歴史的風土保存について
道教育大学函館分校助教授 奥平 忠志
永年の夢であった海外研修に出発したのは、昨年の11月でした。1年間の研修期間中のうち10ヶ月はオーストラリアのメルボルンで、後の2ヶ月はアメリカ合衆国のサンフランシスコで過ごした。
本日の話題は、オーストラリアの歴史的風土保存であるが、本題に入る前に、簡単にオーストラリアの概要について述べたいと思う。
オーストラリアの国土は、日本の約20倍の面積をもち人口約1,400万人のきわめて人口密度の低い国である。人口の約85%は東海岸沿いの地域に集中しており、都市への人口集中の激しい国のひとつである。オーストラリアの歴史は、シドニーに始めてイギリス本国から囚人の収容施設をつくった18世紀末から始まるので、せいぜい200年の浅い歴史しかもたない。本格的に植民地としてイギリス本国から入植者を受け入れ始めたのが19世紀後半であるから、その開拓の歴史は、私達の住む北海道の歴史に類似している。
私が住んでいたメルボルンは、オーストラリアの中でも 古い建築物、公園などがもっともよく保存されている都市である。公共建築物としてはコモハウス(総督邸)、フリンダース駅、メルボルン警察署(刑務所)などが、今日もそれぞれの機能を発揮している。もっとも、コモハウスは1958年以降、建物の保存のため使用されなくなった。また、多くの古い教会は、建築年数 100年以前のもので 今日も市民の信仰の場として利用されている。公園では フィッツロイ公園が、そのたたずまい、落着きが人目をひく。この公園も、すでに19世紀後半に造成されたヨーロッパ風の公園で、恐らく入植した初期のオーストラリア移民が、遠い故郷の想い出をこの公園に託したものと思われる。
1850年代ビクトリア州では、ゴールドラッシュが始まり、一部の移民は莫大な財産を手に入れた。この一部の財産は、やがてメルボルンを中心に土地ブームを生み、資金をいとわぬ大邸宅が建てられた。今日でもこれらの大邸宅の大半は、内部の施設に若干手を入れた程度で利用されており、特にこれらの大邸宅が数十戸で、ブロックをなしている地区は、ナショナル·トレジャー·リア(国宝地区)に指定され、州政府からの援助をうけている。また、大邸宅ではないが、その時代その時代の建築の特色を出した一般住宅も市民に愛好され、外部の建物に手を加えずに使用されている例が多い。このようなおよそ非近代的な住宅を愛するオーストラリア人の考え方には、ヨーロッパ人特有の文化、歴史に対する誇りを感じさせる。
ところで、苦しい植民地時代、ゴールドラッシュ等の歴史の刻みこまれた歴史的造営物も、連邦政府、州の手厚い保護と財政的裏付けを得ているとはいえ、管理・維持に十分な財政的援助をうけているわけではない。そこで、歴史的造営物の保護を支援する団体が街頭募金、チャリティー事業を通じて、保護のための資金援助の活動を行なっている。もっともこうした一般市民の団体の活動も、政府の強力な歴史的造営物保存の政策があるからこそ、必然的に起る運動で、わが国のような消極的な政府の下で、このような運動が盛り上がるのは大変むづかしい。
連邦政府も、州政府も、歴史的造営物だけでなく、自然環境の保護、景観の保護に対しても積極的で、各所にリザーバー(保護地区)を設けている。市内の各地にもリザーバーが見られるが、その大半は学校、公園等の公共施設予定地として先行取得されたもので、無差別な市街地の拡大を防ぐのによい方法である。
広大な土地をもつオーストラリアを日本が真似することはできないが、市民の歴史、文化に対する憧れと、古いものを大切にする精神だけは真似たいものだ。
町並み保存運動にみる住民の環境観の変革
朝日新聞編集委員 木原 啓吉
歴史的町並みを保存し、再生させようという機運が全国的に高まってきた。このことは人々の地域を見つめる目が大きく変わったことを示している。歴史的環境の破壊を現代の環境問題の主要課題としてとらえるようになったのだ。環境観の変革といってもいいだろう。
わが国では1960年代から70年代の初めにかけて、環境問題といえば即公害と考えられていた。水俣病や四日市ゼンソクなどにみられるように、わが国の公害は世界に類のない激烈、悲惨、異常なものがあったからだ。この段階では住民も行政組織も、なにはともあれ、まずこの現実に立ち向かい、一点突破的に、問題の解決に当らなければならなかった。この時点では、もともと環境問題がかかえる広大な側面にまで目を向ける余祐はなかったといっていい。
こうした事態は70年代初期から中期にかけて変化をみせ始めた。公害を体験することで生活環境を見つめる目をとぎすますことになった住民たちは、身の回りを直視することで、あらためて、自然環境の破壊のひどさに気がついたのだ。わが国には、むかしから花鳥風月をめでる伝統がある。そこでは人々は、自然を趣味の対象としてとらえていた。それが、ここにいたって人々は、自然を人間生存の基盤としてとらえ直し、その崩壊を憂慮しはじめたのである。尾瀬の観光自動車道路や北海道の大雪山縦貫道路計画の中止を勝ちとるなど70年代に入って全国各地でまきおこった自然保護運動は、このような住民の環境観の変革があってはじめて成立したものである。
そしていま、第三の段階として人々は、歴史的環境の破壊の深刻さに気づきはじめたのである。歴史的環境を地域に生きる人々の精神的連帯のシンボルとしてとらえ、その消滅が住民生活の上に、いかに大きな影響をもたらすか、ということを知るようになった。すなわち、公害が直接に人々の生命・健康への侵害行為だとすると、歴史的環境の破壊は住民の精神生活への挑戦とみる。ひとたび歴史的環境が失なわれたあとの欠落感は、ことに人々がその地域に生きることを誇りにしていた場合、耐えがたいものがある。
つまり人々は、環境の物的側面に加えて、環境の文化的価値の重要さに気づきはじめたのである。環境を有機的な統一体としてとらえ、公害や自然環境というような現代を横に切る横軸の視点と、歴史的環境という時代をつなぐ縦軸の視点の双方を踏まえて総合的に取り組もうとする姿勢が、住民の間にようやく根づきはじめたのである。
函館をはじめ小樽、角館、妻籠、京都など各地ですすめられている歴史的町並みの保存運動は、このような住民の環境観の拡大、立体化という事実をぬきにしては語ることはできない。また、環境観の変革に根ざさない町並み保存運動は、たとえ一時、観光の対象として流行現象を呈しても間もなく衰微してゆくに違いない。
人々が地域の歴史的環境をみつめる目を養い、育ててきたことは次の事実からも説明できる。すなわち、朝日新聞は1972年2月24日付朝刊に、同社の通信網を動員して調査した結果として、保存·再生の必要な歴史的町並み169ヵ所を紹介している。つづいて1976年12月5日付の同紙朝刊、日曜版は「歴史息づく町並み」と題して全国で二百を越える町並みの所在を示す地図とリストを掲載している。さらに1978年4月、愛知県で開かれた「全国町並みゼミ」に先立って財団法人環境文化研究所が編集した雑誌「環境文化」の特集号「歴史的町並みのすべて」には、前2回の朝日新聞の資料をもとにあらためて全国の自治体に問い合わせた結果として四百にのぼる町並みの存在を確認し、地図とリストを収録している。このことは一見、奇異に思われる。というのは、歴史的町並みは都市化がすすむにつれて消滅し、年々その数が減ってゆくものと考えるのが普通だからだ。だが、このことは最初の1972年の段階では、地域の自治体、住民の間で歴史的環境への関心がまだ余り高まっておらず、たとえ眼前に、保存に値する町並みが在っても、「見れども見えず」の状態にあったことを示している。それが1976年には、前年の文化財保護法の改正も手伝って、人々の町並み保存に対する関心は急速に高まったことを反映している。この傾向は年々高まり、1978年には、72年のときにくらべて実に2倍以上の町並みの存在を認識するようになったのだ。
このように歴史的環境の保存に入々の関心が向けられるようになったことは、単に取り組むべき環境の対象拡大しただけのことを意味するものではない。環境を見つめる人々の視線そのものが変化したことを意味している。すなわち環境の物的価値に加えて、あらためて環境の精神的、あるいは文化的価値に注目しはじめたのだ。それまでは、人々は環境のなかでも貨幣価値に換算できるもの、いわゆる数量化できる価値だけを重視する傾向があった。それが今では、貨幣価値では測れず、それ故にまた住民生活にとって根源的価値をもつものを重んずるようになったのだ。その例を函館にとれば、旧渡島支庁の玄関にそそり立つ列柱。眼下にのびる基坂の景観、ハリストス教会の屋根の線と背後の函館山のスローブとの調和感。こうした自然と歴史が一体となった環境は、それ自体、その価値を数量化しにくいが、それがそこに存在することで住民の心はやわらぎ、函館の文化もまた、それを基盤に育ってきた。「函館の歴史的風土を守る会」も、こうした数量化を超えた価値の存在に目ざめた市民の環境観の変革上に築かれたものと私は考え、その活動を注目しているのである。
街並みへの調和「元町壱番館」を訪ねて…
レポーター 田中 雪子
今や、近代化の波に侵食されつつある明治・大正時代の由緒ある建物や歴史的景観を保存する機運が高まりを見せている。とりかけ函館の西部地域に至っては、内外の専門家から、その行末が注目されている。今後、新たな建造物を建てる場合、街並みへの特段の配慮と景観への調和を図ることが建築家·住民共に問われるのではなかろうか。昨夏、函館山の麓、旧南部陣屋、旧NHK函館放送局跡地に明治の洋風建築の再現ともいうべく懂酒で異国情調そのものの「元町壱番館」が忽然とお目見えして市民の話題をさらった事は記憶に新しい。ここで同館を経営する函館山ロープウェイ(株)専務西野鷹志氏(37才)と設計・管理を担当した近藤綜合デザイン事務所代表近藤秀邦氏(34才)にご登場願いお話しを伺ってみた。
聞き手―最近の建造物の中で「元町壱番館」さんの登場は、函館市民を「あっ」と言わせました。とりわけ郷土の街並み保存運動の高まりの中で、新しい街づくりへの挑戦一街並みへの調和として新建造物の優れた見本を示して下さった、そんな登場かと思うのです。その勇断と実践の見事さに拍手を送る方が多いのですが、それだけに又オープン迄、様々なご苦労が夫々の立場であったと思います。構想、苦心談、意図なるもの、建物を通して街づくりへの提言など順次お聞かせ願えたらと思います。
西野―恐縮の限りです。……確かに元町と言えば歴史的遺産の宝庫ですね。函館発祥の地·・海道文化発祥の地と、言わば函館のふるさと、顔な訳です。話しは11年前に溯るのですが、昭和42年にNHKが元町から現在地に移転しました。その総敷地約1,400坪を、ロープウェー駅の専用駐車場と「元町壱番館」建設の為に当社(ロープウェイ(株)が、昭和52年に用地買収したものです。私が東京から帰函したのが昭和49年の春でしたが、その頃から、それ迄の駐車場専用目的から同館を敷地内にと考えた訳です。そもそも場所的にも函館山から元町にかける散策コースの地点でありますし、市民が遠来の客を案内した帰り道とか、観光客が散策後の疲れを癒す憩いの場にと思い立ち、構想がまとまったのは用地取得間もない昭和52年6月でした。
聞き手―それからが大変だったと思いますが、イメージのポイントはどこから取り入れたのですか。
西野―建物に限ると、外装は初めから赤レンガでいこうと思った。以前長崎に降り立った時、飛行場の建物が長崎の象徴天主堂を形どっていましてね、建てるなら函館らしさを強調しようとの思いを強くした訳です。まず道庁と函館の赤レンがは、尤も開拓地北海道らしいイメージそのものでした。二つ目はあの環境に調和する建物はやはり明治調で異人館風です。三つ目は現代建築手法で明治大正期当時を再現する事。そして最初のイメージを最後迄壊さずもってゆき基本的プロセスを崩さない事、以上に主眼をおきました。更にプランニングから設計·施行·管の密接な連携プレーがあったればこそ漕ぎ着けたと思うのです。
近藤―外装の赤レンガは実物では耐震性に弱い。そこで現代建築工法で鉄筋コンクリートにレンガタイルを張ったものなのです。ですからあの様に美しく、美観を損ねない特徴があるのです。
聞き手―函館には木古内のレンガ、旧渡島支庁書庫、金森倉庫群、旧函館郵便局本局局舎とレンが造りが実に多いですね。まさに明治の再現に赤レンガは欠かせない重要なポイントなのですね。所で実際は予定通りゆきましたか。
西野―結論から言いますと文化的要素をふんだんに取り入れるとなると通常の予算通りにはいかないものですね。
近藤―プランニングと実際が予定通りいくと仕事自体もやりやすいのですが、なかなかそうはいかない。又あの通りの建物ですから、綿密なる設計の為に通常の四倍程の力を注ぎましたが結果的に苦労の甲斐がありました。
聞き手―力のこめ方が伝わって来る様です。まさに苦心の見せ所だったと思いますが、更にどんな所に苦心を払われたかお聞かせ下さい。
西野―往々にして出来上ってしまうと苦労も吹き飛んでしまうのが常ですが、強いて言えば、周囲の景観と美観を損ねない事に最大限配慮したつもりです。いずれ将来はこの建物も歴史的建造物として内外から評価され、保存される様にとそんな所に気を使いましたね。
近藤―外装の次に憩いの場としての内装に苦心しました。何しろ当時を再現する為には材質が違いますからね。兎に角あの建物は西部だからマッチする。けれど函館の人は東部に流出し、密集化している。東部方面は当初は無制限に開発されたが、今や函館の新しい発展は東部の街づくり如何にかかっていると云っても過言ではない。函館は南といってもやはり北海道、寒冷地です。その観点からいくと東部の環境には北欧的住宅が最も適している。これからの函館の建築は西部と東部のカラーの違いをはっきり出し、特色ある街づくりを図るべきでしょう。
聞き手―これからの函館はこうあるべきだ、なるものが出て来たようですが、街づくりにおいて建物が如何に大切な要素を呈しているかを住民もしっかと捉えねばならないのですね。では次に西部に関しては街並条例とか建築条例なるものが必要とお考えですか。
西野・近藤―函館の西部ほど歴史の宝庫の建造物が集中する街並みは全国でも珍らしいと言われている。これこそ函館の財産であるし全国的にも希少価値であれば、それらを残し、守り、活用する事こそ昭和に生きる我々市民の務めと考える。従って西部の景観を壊さない為には当然必要になって来ると思う。更に住民の合意を得た中でそれらを進めるべきでしょう。
近藤―札幌の様に近代化の波に押されて合理性に走りすぎ130万都市が個性のない街になっている。今や「地方の時代」と言われる程にローカル性の重要さを再認識しなければならない時期に来ている。よって我々建築屋はただ単に建築の分野だけに止まらず、あらゆる知識と感覚が要求され、それに応えなくては建築家とは言えない訳です。
聞き手―まさに核心の真只中にいる感を強くしますが、先ほどから「景観」の大切さがしきりと出ておりますが。
西野―西部に関して言うと建物と周囲の調和、つまり景観を損ねない事でしょうね。特に西部の場合下から見上げるばかりが景観ではなく、寧ろ函館山の、上からの“眺める。そして眺められている”との相互的景観が更に大切かと思う。洋館の場合天井が高く、2階建で一般住宅の3階に相当するので特に気を使いました。それから常常思う事ですが、これからの函館の観光都市としての使命は、観光客に飽きられない都市づくり、もう一度訪れたい心理を起こさせる。これが、観光都市函館に欠けている。これからの観光は、文化的要素がより強く求められてゆくべきである事から考えると、それらを踏まえ市民自体ももう少しおらが町の街づくりに一人一人が関与して、北海道の京都を目指す事に目覚めるべきですね。
聞き手―最後にこの度中央の諸先生による自治協会の報告書「地方都市の個性と魅力」の提言について一言。
西野・近藤―函館の発展の為には素晴らしい提言を戴いたと思います。これを絵に描いた餅にするかしないかは、住民意識の問題でしょうし、同時に官民一体の街づくりを推し進めるべきで、とりわけ行政の指導と姿勢が問われて来ると思います。
聞き手―今日は大変お忙がしい中を、御協力誠に有難うございました。
やませ 異人版画展によせて
五嶋軒 若山 徳次郎
異人版画をぼつぽつ集め出したのは、終戦直後のことでした。私共の本店が七十二時間の期限付で接収され、私も、建物の付属品と共に強制徴用されました。占領軍の内側から見て当時の函館が、安政元年 ペリーの艦隊が入港した頃とあまりにもよく似ているのに驚きました。日本人の貪慾なまでの好奇心と順応性です。
徳川封建制の唯一絶対の“おきて”は日本の近代化を防ぐことでした。その反面、日本人がその近代化を如何に熱望していたかを示す唯一の資料が異人版画だと思います。異国人の生活、その基盤である経済活動を通して、文化を鋭い眼で見て、それに順応している姿が、版画の端々に見られます。
幕末期、北辺の地函館は、日本における唯一の文明の燈を灯し続けた港として栄え、その伝統は今日の函館に引き継がれています。
安政六年、商人重 重三郎の外国人向けレストランと、慶応二年にはアメリカ人経営の酒場が、奉行所より正式に許可になっています。
私も、三代続いた洋食屋に生まれ 育ちました。又、母方の祖父も幕末期、洋式帆船の造船所を経営しており、私は母方の祖母の昔話を聞くのが好きで、根堀り葉堀りよく聞いたものです。異人版画にその昔話とのつながりを見ると、つい入手する破目になるのが常でした。
私共の店は、創業時ロシア料理とパンの店でしたが、明治十九年 フランス帰りのコックを雇って、フランス料理の店になりました。
“パン焼き”の版画を見た途端、明治三十九年に五嶋軒に嫁した頃の母の仕事がパンを荷造りして、東京·横浜へ送ることだったのを思い出し、値も聞かずに買ってしまいました。
異人版画を集めた動機を、と聞かれますと、何時も 私の生活環境がバタ臭かったからと答えています。又、北海道開拓の先達である函館の歴史的史料は函館にとどめたいという執念であったことも事実です。
五嶋軒も今年が百年になり、いささかでもお役にたてればと思います。
文化ぷりずむ ふれあいの中にこそ…―点と線―
市民演劇鑑賞会委員長・野人の会代表 大河内 憲司
私は何故、こうも函館という街に関心を抱く様になったのだろうか。そもそものきっかけは全国的組織である演劇鑑賞団体に首を突っ込んだ事にある。
ここでの数年間の運動体験は演劇を通じて函館の事を深く考えその大切さを教えてくれた。この会は「よい演劇を安い会費で」のスローガンのもとに、演劇鑑賞の輪を人間的ふれあいの中に広めていこうとしているのだが、その運動の最中でも、私の頭の中に松本清張の小説「眼の壁」「点と線」の題名が、時々フワッと浮かんでくる事がある。
何か一つの運動、呼びかけをしている者にとっては、周囲に、それを是非わかってほしい、との心情が常に働くと思う.然し市民の多くは、演劇の分野のみならず他の活動に対しても、あまり関心を示さなかったり、断絶を思わせるほど冷やかでさえある。この無関心さと冷淡さが私の眼前を大きく覆っている壁を思わせるのである。
一方、市内の文化団体の数は結構多いものの、相互の連帯とふれあいは皆無と言ってよいほど貧しい。夫々の活動範囲は狭くゲリラ的運動を思わせたり、或いは単細胞的に勝手に突起を出したり引っこめたりのアメーバ運動だったりで、この点在している細胞体が“線”として結びつき複合化してこないもどかしさがある。これらの焦らだちと虚しさが、私に小説の題名を連想させるのかも知れない。然し、いたずらに手を拱ねいていても何一つ問題は解決しない。「地方の時代」と呼ばれる今日、豊かな心のふれあいを確かめあいながら、函館の生活文化を考え、魅力ある街づくりを語り合う共通の場がほしいと思う。それが演劇鑑賞会の一つの仕事であったり「野人の会」「歴史的風土を守る会」の活動が目指す方向であってもよいわけだ。その様な意味から昨年暮れの三者共催による「文化財保存チャリティパーテー」の成功は将来、私達の進むべき方向に大きな示唆を与えてくれた。
函館、小樽のみならずー人の人間の小さな呼びかけでも多くの人が手をつなげば何かを動かせる事を示した連帯の実例は多々ある。他方、立川基地の如く跡地利問題が市民投票によって決定しょうとする運動が市議会であっさり否決された全く逆の事例もある。以上の事からしても私達はセクショナリズムに走ったり、対岸の火として他団体の真剣な運動に無関心であってはならないと思う。三無主義と言われる今日、野次馬的好奇心は、寧ろ人間的ふれあいを求める道につながるのではないだろうか。今人間にとって何が大切で何が美しく価値あるものなのかを考えたい。心がふれあう連帯感溢れる仲間的共同体を如何に作り上げてゆくかが、今後の課題であろう。
歴史の散歩 シリーズ3 ~はこだての市電~
運営委員 和泉 雄三
須藤隆仙氏によると、函館の電車は、大正2年(1913年)に始った、となっている。明治41年渡島水電(後に函館水電と改称)KK大沼第1発電所ができ、この会社の民営事業として、市街電車が造られたのである。須藤氏の「函館=その歴史・史跡・風土=」の年表によると、大正2年 函館水電KK、湯川線(東雲町―湯川間)電車運行開始という事になっている。この年の10月31日区内全線が開通された。東北・北海道で最初 全国7番目である。北海道では勿論最初、これだけでも大変な歴史的遺産である。
ところが、それだけではない。世界的遺産なのである。世界の市電の始まりが、1888年(明治21年)で、普及したのが、1902年(明治35年)から、1917年(大正6年)にかけてであるからだ。函館の1913年開始というのが、ズッシリした重みを持つのである。市電の前身は、世界中どこでも馬車鉄道であるが、函館ではすでに明治30年(1897年)に、これが始っている。これを考えると、まさしく世界的文化遺産と言わなければならない。市電が赤字になり、廃止論も出ているが石油がなくなりかけている今日、この世界的文化遺産を、自らの手で無くして良いものだろうか
考古学の立場からみた函館
函館北高等学校 高瀬 則彦
1.考古学からみた函館の位置
(イ)地理的位置―東北地方との関連性について
考古学の立場からみると、函館を含めて道南地方一帯でひとつの特徴を見出す事ができる。 道南は本州に最も近く、また1万年少し前までは津軽海峡が陸続きになっており、東北地方の北部とは人びとの往来も自由にでき、文化圏も同じであったと思われる。その後津軽海峡ができて、道南と東北が切り離された事により、両者は多少異なった文化になっていった。しかしそれでも両者は海峡をはさんで往来が可能であり、両者の文化には類似点が非常に多い。例えば、津軽半島北部の宇鉄遺跡と木古内町札効遺跡では、出土品などに数多くの類似点がある。また、道南から東北地方北部にかけての遺跡から青龍刀に似た形の石器が出てくるが、これは川でサケを獲ったとき頭をたたくものといわれている。
(ロ)時間的ずれ―文化の編年について
考古学上よく知られている繩文文化は、数千年もの長い間日本の北から南まで広い範囲で同じ文化がみられた。それが今から2,300年ほど前、本州などでは弥生文化がはじまり、それから古墳文化をへて、古代・中世などの歴史時代へとつながっていく。ところが津軽海峡をへだてた北海道は、弥生文化が入りきれず、そのため別の歩みをしてきた。(表参照) 弥生文化は稲作と表裏一体のものであり、稲作の不可能だった北海道では弥生文化を受けつけなかったものである。しかし稲作はだめでも、弥生文化のもつ、もう一つの特色である鉄器などは北海道へ入って来ていた。そのためこのころの北海道では、繩文文化をそのまま残しながら、多少弥生文化の影響をうけていたわけで、これを続繩文文化とよんでいる。その後擦文文化となるが、この時代の土器は、表面をはけではいたような模様で、繩文土器とはやや異なる。北海道に住んでいた人たちが擦文文化の生活をしていたころ、海峡をへだてた本州では、平泉で藤原氏が栄華を誇り、また鎌倉では新しい武家政権が成立しようとしていた。北海道における文化のおくれ、つまり時間的ずれの大きい事に注意しなければならない。
2.函館地方の遺跡分布
函館地方では、函館山麓の住吉町と、サイべ沢・レンガ台・日吉・空港などの台地一帯に多くの遺跡がみられる。(図参照) 1万年ほど昔、函館の市街地は海面下にあり、そのころの海岸線と思われるあたりにそれらの遺跡が分布している。人間が住む場所を定めるとき、まず水と食料が得やすく、日当りもよく、風の避けられるところを探し求める。海辺に近く、小高い丘、つまり海岸段丘はそれらの条件に最も適合したところで、函館地方の遺跡も海岸段丘とのかかわりが大きい。
松前藩制下における箱館
函館市立中島小学校 浅利 政俊
室町時代の庭訓往来のなかに、宇賀のコンブが出ており、津軽海峡から噴火湾にかけてとれる上質なコンブは全国的に有名であった。そのコンブの集散地となっていたのが宇須岸つまり現在の函館である。そのころ河野政通が館を築いたが、その形が箱に似ていたところから箱館という地名がつけられたという。ところが間もなく起こったコシャマインの乱によって、箱館はアイヌ人に攻め滅ぼされ、その後 200年もの長い間、箱館は無人の空白時代となったのである。
秀吉が天下をとり、朝鮮出兵の指揮のため九州の名護屋に滞在していたとき、蛎崎慶広はそこへ参上して秀吉から蝦夷全島を支配する許可をうけた。ついで家康の時代になると、大名並みの待遇をうけ姓を松前と改めた。このようにして松前氏の蝦夷支配は、強力な中央政府を背景として確立された。
松前藩は三百諸藩のうち唯一の米なし藩であった。つまり諸藩の財政が米の収入に依存していたのに対し、松前藩だけは米作が不可能であり、財政基盤は海産物においていた。かつて慶広は秀吉から近江国に封地を与えるといわれ即座にことわったという。慶広は米よりも海の幸による利益がはるかに大きい事をよく知っていたようである。その松前藩の海の幸を代表するのがコンブであり、コンブは松前藩のドル箱であった。そのころ松前藩は亀田番所を設け、白鳥孫三郎に諸事の取締りを命じた。亀田番所は現在の亀田八幡宮あたりといわれ、ここに半農半漁を営む人達が居住し、夏のコンブ期間は下海岸へ出かけていたようである。
やがて再びアイヌ人と和人の大抗争シャクシャインの乱が起こり、それに手を焼いた松前藩は東北の諸藩に応援を求めた。そのとき蝦夷へ派遣された津軽藩士たちによってまとめられたのが津軽一統志で、それによると、亀田は家二百軒に対し、箱館は「澗有り、古城有り、から家有り」というさびれた状態であったらしい。それが亀田川の洪水によって川口が浅くなった為、再び箱館が港としてよみがえり、亀田番所も箱館に移されて、急速な発展をとげるにいたった。
江戸時代の半ばをすぎると、箱館は江差や福山(松前)を追い越して「松前地第一の泊」として繁栄した。松前藩は港々に沖の口役所を設けて、船舶や品物のすべてに税金をかけ、それを金で納めさせた。箱館における海産物の出荷が増大したのは、国内の消費生活が向上した事にもよるが、中国(清)貿易による長崎俵物の輸出増加も見逃す事はできない。箱館の海産物は日本を代表する輸出品でもあったのである。
その後松前藩は、国後アイヌの失政や、ロシアの南下に対応できず、加えて殿様のスキャンダルもあって幕府の信用が低下した。そして遂に東蝦夷地が幕府の直轄地となり、箱館奉行がおかれた。これによって箱館は北のかなめとして飛躍的な発展をとげるのである。
函館の地域的特性
函館中部高等学校 大森 好男
1.函館の地形
函館山は今から二千万年ほど前(新生代第三紀の後半)にその基盤が形成され、その後何回かの噴火によって現在の形がつくられた。それが一万数千年前、氷河の後退とともに海水が増大し、函館山は陸と離れて孤立した。そして松倉川の土砂が沿岸流によって西へ運ばれて堆積し、さらに海水面の低下とともに函館山は再び陸続きとなった。それは今から三千年ほど昔の事といわれる。函館の中心街は、陸地と函館山を結ぶトンボロ(陸繫砂州)の上にあるが、これは都会では日本唯一のものである。トンボロは都市の発展にとって二つの欠点をもつ。それは低湿地が多く地盤も軟弱な事と、水の便が悪い事である。とくに函館にとって一番の泣き所は飲料水にあったといえよう。そのため幕末の安政年間に、西別院の坊さんが大変な努力をして、亀田川を分流した願乗寺川をつくった事は有名な話である。しかしこの川は、飲料水に使われるとともに、洗たく水などの投げ場にもなったというから不衛生な事極りない。そしてやがてコレラの大流行をもたらし、その結果日本で二番目の水道の完成へと結びつくのである。トンボロの地形は天然の良港をもたらす。函館はやはり港に生命をかけた都市である。
2.函館の気候
気候を最もよく反映しているのは植物分布だといわれる。北海道の森林はエゾマツ·トドマツで代表されるが、渡島半島だけをみるとそれらは10パーセントにも満たない。渡島半島で最も多い樹木はブナであり、それは東北地方に多いものである。その事からも渡島半島の気候は東北地方に類似するといえるであろう。
数年前北海道新聞に「北の天気」というのが連載されたが、そのなかで道内五都市の積算寒冷度と酷寒指数が示されていた。積算寒冷度はひと冬のうち一日の平均気温がマイナスになったものを合計したもので、旭川の(-)800°を最高に、釧路・札幌と続き、函館・室蘭は(-)300°位である。つまり函館の寒さは旭川の寒さの半分以下というわけである。これに対し酷寒指数は気温と風の状態をある公式によって計算したもので、体感温度に近いといわれる。これによれば意外にも室蘭・函館はその指数が高く実際には寒さを多く感ずる事になる。函館は北海道で最も暖いところといわれるが、寒さの目安はいろいろあり、風の多い函館は必ずしも暖いと断言できないようである。
3.函館ナショナリズム
明治以降北海道とくに内陸部への入植者たちは、厳しい自然との闘いによって人間の力の弱さを十分知らされた。そのようなとき何よりも頼りになったのが隣人であり、それは昨日まで見ず知らずの人であっても、同じ流れ者、同じ百姓として開拓のため手を握り合い助け合った。これがやがてコスモポリタリズムのスケールの大きい北海道人をつくりあげていった。
ところで函館の人は自ら人情が厚いと自負する。しかしその人情の厚さは、よそ者や新参者に対しては一変して冷酷であり排他的でもある。函館ナショナリズムのあらわれであろうか。函館は北海道のリーダーであると同時に一匹おおかみでもあった。函館の歴史によってつくられた精神的風土なのである。
《以上三人の文責大森好男》
―文化財を大切にする心を―
当会では、道文化財保護協会主催昭和53年度“文化財に関する図画コンクール”にみごと入選した港中学校3年中村修一君(金賞・公会堂)同1年杵渕克典君(銀賞・博物館)同2年中村理恵さん(銅賞・ハリストス正教会)に賞状と記念品をおくり激励した。
三人を代表し中村修一君は謝辞を述べ「日頃、多くのすぐれた文化財のある函館に住みながら、たいして気にもせず過ごしてきました。しかし、今回賞をいただいた公会堂を描いている時、一人の旅行者が、私の絵をみて“こういう古い建物を描くときは、それを大切にしようと思いながら描かなくては―”とアドバイスしてくれました。あらためて公会堂を見なおすと、横板の一つ一つのふしにもその歴史が感じられ、見知らぬ旅人に、私たちの忘れていた文化財を大切にする心を知らされました。これを機会に文化財を守っていきたいと思います。…」と力強く決意を述べた。
会のあゆみ <53.12.5~54.3.31>
○12・5 会報第2号発送
○12・6 第4回運営委員会
○12・9 学習会“オーストラリアの歴史的風土保存について”講師奥平忠志先生
○12・9 道文化財保護協会主催“文化財に関する図画コンクール”入選者を表彰
○12・14 北海タイムス紙上に当会の活動が掲載
○12・22 第1回文化財保存チャリティークリスマス・パーティー(当会、野人の会、函館文化懇話会共催)開催
○12・27 文化財保存チャリティ・パーティー実行委員会
○12・27 第8回定例市議会で「旧渡島支庁舎に関する陳情」が採択された(12・209旨通知
○54・1 文化財保存基金45万円を市長に手渡す
○1・27 学習会
考古学的立場からみた函館(高瀬則彦先生)
松前藩制下における箱館(浅利政俊先生)
函館の地域的特性(大森好男先生)
○2・2 役員新年交礼会
○2・5 函館市文化団体協議会新年交礼会に参加
○2・6 会報第3号編集会議
○2・6 NHK第1放送(全国ネット)で“明治・大正の街並みを残す”と題し、今田会長ラジオ対談を受ける
○3・22~会報第3号編集会議
事務局だより
当会がスタートして早一年を迎える。過去にも函館の歴史的風土保存に言及された方々がおられたと、聞くが幸いにも、今日の社会的諸条件が会発足へプラスに作用したと言える様です。旧渡島支庁庁舎が現在地で修復、保存の線で決定をみたのは会員の皆さんの努力と熱意の成果であり、且又、行改の柔軟な対応があったればこそです。同時に道新、朝日、NHK、雑誌「環境文化」、全歴風連、市内の各種文化団体の皆さんなど実に多くの方々のご支援、ご教示の賜であった事を改めて深謝したい。さて来る五月に五四年度定期総会が開催されます。新年度はおそらく「西部のまちなみ」など条例問題を含め新たな局面に対処してゆかなければならない。多くの人々に呼びかけ、市民が手をとり、行政と一緒に智恵を出しあい、函館の歴史的風土を学び・知らせ・守り、過去から現代そして未来につながる市民運動を持続させていってほしいものである。
◇事務局からの連絡事項
(1) 新年度分会費納入方法「振替 函館 630 本会宛」一口1,000 円以上を早目に振込願います。
(2) 文化財保存クリスマス・チャリテー・パーティーの益金四十五万円は文化保存基金として共催三団体の名で市へ寄附をする。ご協力下さった赤光社、その他の諸先生、ご参加の皆さんに多謝致します。
(3) 本の紹介、朝日新聞編集委員木原啓吉氏編「環境の思想を求めて」は歴史的風土保存を考える上での好著です。定価1,600円希望者はご一報下さい。
編集後記
※春一番!!会員の皆様に第3号をお届けします。光陰矢の如しのこの一年間をふりかえって、会報に御協力下さった方々に紙上を借り厚くお礼申し上げます。
※市教委発行ガイドブック「函館市の文化財」は最近の行政姿勢で極めてホットなニュースだった。而も市民の反応は僅か一週間で3,700人申込殺到とは取りも直さず市民自ら郷土の文化財に対する関心の高まりを示した驚くべき数字である。且又本会の今後の活動に明るい兆しが見えた証拠でもあるまいか。更に地方自治協会「地方都市の個性と魅力」の提言影響大とも見受けるが、これ迄の本会活動も何がしかの影響を及ぼしているのではと思うのは自画自賛になるでしょうか。…<田中>
函館の歴史的風土を守る会会報 No.3 S54.4.1発行
発行所 函館の歴史的風土を守る会
五稜郭タワーKK内
函館市五稜郭町43番9号
印刷所 スピード印刷センター
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