会報No.9(昭和56年5月23日)

会報No.9(昭和56年5月23日) 会報
会報No.9(昭和56年5月23日)

“街づくり”を語る市民の広場…。第3回新春チャリティー・パーティー

実行委員長 佐渡谷 安津央

 市民と共に街づくりを考えようと呼びかけを強めて、新しい企画を生み出した昨年の”歴風”の活動、それはすべての運営委員が息つく間もないとりくみのくりかえしであったと思います。そんな中で第3回チャリティー・パーティーの実行委員長に推され、大いにとまどいを感じたものでした。例年になく暗い話題で幕明けした新春…。市民はどんな思いをもち何をもとめてこのパーティーに参加されるのだろうか?そんな不安も脳裏をかすめもしました。しかし、パーティーのプログラムが進むにつれその不安が消え成功への喜びにかえがたいうれしさとして胸にきざみこまれて行く様でした。このパーティーの成功は”街づくりの願いで結ばれた市民の広場”として一人一人の市民の心に根をはりだしているのではないかと思います。そして名もなく、あるいは名実を求めない、だが確実に自らのもてる力で街づくりに参加しようとする市民…。その市民の一人一人のもち味が生かされながら郷土の未来を語り豊かな街づくりを進めることのできる広場、これこそ永い間市民が求めつづけて来たものではないでしょうか。第3回チャリティー・パーティーは私にとってすばらしい”街づくり”の夢を広げ、市民の一人としての豊かな生き方を明らかに示してくれた一夜だったと思います。皆様の絶大なお力ぞえに心から感謝申し上げます。

東京より愛をこめて

全国町並み保存連盟顧問・朝日新聞本社記者 石川 忠臣

 ミナサン、オバンデス!、まず友好のごあいさつをおくります。さて、今夕はたいへん楽しそうなパーティで私も、文字通り飛んで行って、皆様とごいっしょに何杯も、何杯も乾杯したいのですが、残念ながら遠すぎて出席できません。そこで一言……。
 私はいま、ある雑誌の編集の仕事で、全国各地の歴史的町並みからの報告を読んでいます。どれもまじめな原稿ですが、保存運動の実情はたいへんきびしく、読んでいて胸が苦しくなるものが多いのです。そんなとき、函館の歴史的風土を守る会の近況を知らせていただき、ホッとする思いがしました。
 好きな建物コンクール、歴風賞、保存文化賞……と、ユーモアのある企画とその実践を通じての啓蒙―これはすばらしい町並み運動であると思います。全国的にみても、函館という地域の特性を生かし、”明るさ”と”楽しさ”を強調した運動ぶりは、きわめて貴重なものと高く評価できると思います。函館のあすの町づくりのため活躍されている函館の歴史的風土を守る会の皆様方に全国町並み保存連盟を代表して、深い敬意と厚い友情の拍手をおくります。ともに、私たちの連盟では、もっと函館の経験を全国の町並みの仲間たちに伝え、運動の参考にしたいと思います。そのためにも、六月、琴平町で開かれる第4回全国町並みゼミには、遠路ですが、お一人でも多くの函館の仲間が参加されることを期待します。では最後に、パーティの成功と函館の歴史的風土を守る会の前進を祈って、東京の空からカンパーイ!    1981年1月27日

保存文化賞(YWCA会館) ”緑町界隈のこと”

星野 花枝

 「えっ、この建物が?」と、なかば信じられないのは毎日見馴れているせいからか。隠れたるファンの投票のおかげで我らのYWCA会館は、この度歴風会から保存文化賞をいただいた。60年近くになる木造本体の部分は今だにがっしりし、むしろ戦後の増改築部分が傷みが早い。昔の民家は丈夫に作られていると感心する。場所は杉並町と松陰町の境界線、緑町通り。今は三角通りともいうが私は頑固に緑町通りと繰り返す。そして松陰町ではなくて松蔭町とも。杉並町、柏木町、松蔭町と、文字通り緑溢れる地域であったが、今はその名に佛を残すのみになった。しかしこの緑町付近は樹齢〇〇年の保存樹木を擁する家が多く、歩きながら眺めるのも楽しい。
 すぐ隣は広大な敷地を持つ遺愛高校。乳白色の二階建ての木造本館、そしてホワイトハウスと呼ばれている奥の教師館に若き日の想い出をこめていとおしんでいる卒業生がどれ程多いことか。深いみどりと花々を通して目に入る白亜の教師館は、時代の流れを越えてそこに一つの世界を現す。人間はやはり心のふるさとを求めてやまない存在だと思う。
 勝手な願いだが、この緑町通りを愛する者として醜悪な「近代建築」がはびこらなければよいと思う。建てるにしても工夫が欲しい。建物は単に入れ物ではなくて、我々の文化のありようを示すと思うから。

“チャリティー・パーティーを司会して…”

NHKアナウンサー 黒沢 典之

 生れてはじめて、ウイスキーグラス片手に司会をさせてもらったパーティーは、できあがったばかりの”番付表”を発表したり、オークションがあったり、”ジョイフルデキシーランドセブン”のナマ演奏にあわせて、会場のまん中で、堂々とダンスをしたり……。それは、もうずい分遠くなってしまった子供の頃の夢中で遊んだ時間の穴の中に、またスッポリとはいりこんだような、妙に心楽しいものでした。
 先人の残した歴史的な建物、先人から受け継いだ進取の気活、それらのすべてを包みこんだ函館の歴史的風土一今、函館の歴史の中に生きる私達は、この風土を守り伝えることを誇りに思っています。
 チャリテー・パーティーは、函館市民が一緒になってこの心意気を確認し合いました。
 この一夜を演出した「函館の歴史的風土を守る会」の新鮮な創造力のあふれたステキな人達に、乾杯!!

「ふるさと写生会に参加して」

函館市立赤川中学校2年生 中村 智信・門脇 真人

 函館の一市民として誇りをもって参加し、ふるさとの街並みのなつかしさをいつまでもわすれることなく、後世に長く残すためにも誰かが、そのことに積極的に行動しなけれぱいけないと考え参加しました。前日、先生によばれて参加することになった。当日は何となく気持も不安で、うまく描くことができるであろうかなどと思っていた。少し寒いこともあったのかな。やがて全員が集まって各何班かに別れることになり僕達は古い金森ビルの方へ行き製作し始めた。製作時間ももう一時間くらいほしかったように思う。しかし、真剣に描いた。
 どうにか決められた時間までに、まにあった。展示会が始じまり審査が終わるまで、とても不安でした。なぜかと言うと僕達の学校は新設校一年目の赤川中学校であり小さな学校からでてきて自分の力がどのくらいあるのかなどと他の人達の作品とじっと比較してみたものです。やがて結果がでて、みごと僕達二人は入賞した。本当にうれしかった。急に今までの不安がいっぺんに消えて自信をもつことができた。自分達の力で描いてその力を認められたうれしさは僕達にとって決してわすれることのできない思い出になりました。賞をとれたこと、そして全校生の前での表彰式は本当にうれしかったし、良かった。これからも、ずっと函館の街ふるさとの美しさを絵にして描きつづけていきたいと二人で固く誓いあいました。これからもいっそう、この函館の街を愛しつづけます。

「野外スケッチ展に想う」

富田 典子

 昨年の秋、澄みきった空のもと、歴史の香りいっぱいの基坂界隈で半日余りを過ごしたことは、私にも娘にも、忘れ難い何かを残してくれた。前日スケッチ展の新聞記事を娘に見せると躊躇なく参加の意欲を見せたことで、私は内心うれしかった。子供時代に大勢の仲間と郷土の古い建物を描いたことが、きっと、日本、いえ世界のどこを探しても、この函館にしかない歴史を物語っている風景との絆を深めてくれたのではないかと思う。子供達が思い思いの場所で、一心に描いている姿は感動的ですらあった。
 私は上磯からのお母さんと、あたりを散策したり港の見える店でコーヒーを飲んだりした。その喫茶店は、二ューイングランド風で、昔住んでいたボストンが心によみがえってきた。
 私がかつて学んでいた大学の入学式は、1742年以来の歴史を持ち、John Abamsが『自由のゆりかご』と呼んだという古色蒼然としたレンが造りのFaneuil Hallでで行なわれた。入学式の次の日は、上級生の案内でFreebom Trail『自由の道』を一日かけて、ゆっくりと徘徊した。ボストン市民はアメリカ建国の基としての誇りが高く、独立のため流した血と汗の結晶である先人たちの足跡が、手にとるように分るよう配慮されていた。由緒ある建物がよく保存管理され、しかも市民生活の中によく調和していた。約2.4キロの中に点在する15ヶ所の古き良きボストンを代表する公園·教会·銅像·店·船を、長身の先輩が誇らしげにガイドしてくれるうちに、三百年の歴史の息吹きを強く肌で感じたものだった。『文明開花の足跡』とでも名づけた函館のTrailをつくるのも意義あることだと思う。

函館名建築番付の意義と課題…そして提案

建築雑考の会Σ 明日和 成呂宇

 先般、歴風が多くの市民の方々の協力によって作制した番付について、私なりの意見を述べさせていただきます。

○意義として
 当番付が、民間主導型で多くの市民が参加し、かつ、学術的に優秀なものばかりでなく、市民の心の故郷としてのものが多く選ばれた事に、市民意識の目覚めを感じる。

○課題として
 選ばれたものの中には、傷みの大きいものもあり、これらの保全を一所有者のみに任せておいていいのか。(これでは、いつの日か心の故郷は、朽ち果ててしまう。)

○提案として
 番付は、形状がやや大柄で地方送りにし難い面もありぜひ葉書大のものが欲しい。また、各建築の保全には、市民一人ひとりが、知恵を出し、金を出して行動する事が望まれる。

「原・函館人」のつぶやき

マリン・ハウス 清水 憲朔

 私の家は、函館に移り住んでから私の代で4代目に当たり、「原・函館人」といってもいいと思います。その私に、この街の魅力について本当に気付かせてくれたのは女流作家の津村節子さんが書いた短い文章でした。
 彼女は、元町地区の教会などについて書いたのではなく、現在の弁天·大町·末広·豊川町に含まれている、旧西浜・中浜・東浜・船見町に残る倉庫や商店が連なる街並みの魅力についてでありました。
 この街はまさに『将どもが夢の跡』とも言うべき、明治中頃から昭和の初めに最盛を誇った漁師と商人の街であったところです。親たちから伝聞するところによるとかつて函館は北日本最大の都会であり、全国の8番目の人口をしばらくの間有したということです。
 大正初期の写真を見ると、天然の良港には大型帆船がマストを立て、蒸気船が所狭しと停泊している様が見え港から山の手にかけては瓦屋根の洋風の商店そして住宅公共建築物がびっしりと立ち並んでおります。
 又、昭和初期の銀座通り(当時は恵比須通り)にはカフェーのビルが並び、ジャズとネオンの街にエプロン姿の女給さんが通る写真をみると、東京以北最大の繁華街といわれていたというのもうなずけます。
 勿論この街の繁栄を支えたのは「北洋漁業」であり、これは又当時の日本経済を支えた大きな柱の一つであったと聞いております。現在函館に何代かにわたって住んでいる家には、必ずと言っていいくらい「家(うち)も昔は良かった時があった」という話を聞きます。そしてそれは、ほとんど北洋漁業がらみの繁栄でありました。
 「先発後進」「斜陽」「不況」という代名詞が函館につけられてから、しばらくたちます。また逆に函館の魅力について他の町からきた人に語られることが年々多くなってもいます。「原・函館人」の子孫たちも親たちの資産も底が見えてきて、ようやく自分も含めて自分達の置かれた状態が理解できてきたところです。
 もう手遅れになったという事もあるくらいですが、自分の関係する手の届くところから手を付けよう。それが函館で一生を過ごすことを決めた自分の役割と思っています。

“Folic acid(葉酸)の語源……”~ホーレン草の語源~(フォーリー司祭の由来…?)

鹿児島大学水産学部長 柿本 大壱

 私は絵をみるのが大好きであり、このごろは描くことにも楽しみをおぼえている。絵をみる目でながめる函館はとても美しい。私は函館で生れ育った。生れた故郷だから特別に美しく思うのかも知れないが、多くの画家によってこれまで沢山の絵が発表されているところをみると、客観性がなくもない。函館には中学時代専門学校時代の友人もいる。父が高齢で函館に住んでいるので年に一度は帰省している。今住んでいる鹿児島は南国の美しい街で函館と比較して甲乙をつけ難い。私にとって二つの都市は絵画素材的共通性をもっていると信じている。私が30年も永い間鹿児島を離れなかったことの一つの原因にもなっている。佐渡谷氏とは文雅堂で一度お会いしたのみであるが、私にとっては強い印象が残っている。私はその時葉酸(Folic acid)の語源について私見を述べたがその後私の得た諸種の情報から、これが誤りであることを知った。そのことについて訂正をしたいと思いながら今日に至ってしまった。幸いその機会を作って下さったので述べてみたい。
 随分以前のことだが、私は水産生物中の葉酸の研究をしたことがある。葉酸は巨大血球貧血の治療に用いられるが私は微生物の生比素として研究をした。このビタミンは最初にホーレン草から分離されていることからFoliC acibの呼び名が付けられているが Foliate(クサムラ)が語源になっているかも知れない。確かなことは現在も私は知っていない。我か国でホーレン草(菠薐草)と呼んでいるがその音がよく似ている。私がホーレン草をフォーリー司祭に置きかえて考えてしまった原因は研究に熱中していた時代にたまさか北海道に帰省して北海道新聞の或るコラムに今田某氏のフォーリー司祭の記述を読んだことによる。この司祭は植物学者でもあり、函館ではその昔リンゴをフォーリーリンゴと呼んでいた時代があるとしたためてあった。植物学者とホーレン草がダブッてしまったのであろう。ホーレン草の学名は、spinacia oleracea であり命名者はリンネである。これにはFolicに該当するものは皆無である。従って最初に述べた Foliate あたりが欧州での語源とすべきであろう。その後大学の図書館で古文書をみる機会があり、ホーレン草の語源と思われるところを発見した。成形図説(1804)薩藩翻刻がそれである。これには現在の菠薐草が菠薐菜と記載されている。中国が我が国への輸出国であり、台湾あたりでも菠菜(パーツアイ)と呼んでいる。我が国では波宇礼牟艸とあてた時代もあるらしい。
 函館の歴史は浅い、鹿児島に住んでそれが判る。しかし街の歴史は古いだけが価値あるものとは思われない。現に鹿児島の人々の歴史は維新以後である。歴風の発展を御祈り申しあげたい。

観光資源

岡本 杏一

 昨年の暮から正月にかけての数日間私は九州旅行の機会を得て、鹿児島を振り出しに気ままな旅を北上しました。旅行中非常に感銘を受けたのは、隼人、国分、秋月宇美等の小さな町の郷土愛、とでもいうものでしょうか、故郷のここだけは開発の波を食い止めなければならない。ここがこの町の歴史の原点だ、というポイントには数百年の歴史を目のあたり見る様に保存に気を配っていることでした。これらの町は決して「観光の町」でもない、平々凡々な田園の町で観光を売り物にしない所に、風雅と気品と落ち着きが感じられ、見る目にもすがすがしいものでした。
 例えば「出水」は農業と漁業の小さな町でしたが、島津藩の外城制度の「麓集落」が陣地兼屋敷としての機能をそなえる街並みがありますが、麓武家屋敷として四百年前の姿で一角に保存され散歩道になっておりました。
 「秋月」でも秋月城前の一角は注意深く保存され道路などは昔のままの石畳を補修し、周囲の家並みもこの一角に調和するような建物ばかりでした。
 私は帰函後「函館の観光」について少し考えて見ました。そして私がこの数年間常に不愉快に思う函館市の観光資源に対する考え方や施策について私なりの感想を述べたいと思います。これは私個人の感想ですからその点お断りいたします。
 その一、啄木公園及びその周辺について。
 私は津軽海峡を函館にとって非常に貴重な観光資源であると思っております。啄木公園を市が造ったのもさだめしタ映えの海と立待岬の美しさ、月夜の漁火と岬の調和美を考えて造成したものと思います。この点は非常に結構な事なのですが、公園までの道路の防波堤をどうしてあの高さにしたのかという事です。昔、海岸通りといわれていたころは全線海は見えて道路が悪くても楽しい風景の道でしたが、現在は色々な建物が立ち並び、海峡の見える場所はあの公園のホンのわずかの間だけなのは皆様ご覧の通りなのです。その貴重な海の見える道路に防波堤の出来たのはよいとして、満潮時の数刻の間は海が見えますが、その他の時は見えるのはコンクリートの塀ばかりでそのサクバクとした風景たるや、向いの刑務所の中もかくやと思われるような感じです。勿論これは乗用車に乗って走った時の事ですが、余りに美しい風景に見とれて交通事故の防止のためといわれればそれまでです。然しわずか1.0~1.5m防波堤の高さが低ければ、常時海を見る事が出来たのにと、私は残念に思えてなりません。
 その二、四稜郭とその周辺について。
 私は四稜郭が五稜郭よりも好きで、中学時代から随分四稜郭へは行ったものでした。土塁に腰かけて、港を眺め、海峡を遠望し、上磯方面に目を転じ、函館で行なわれた最後の戊辰戦争を想像するのも楽しいものでした。
 市がまだ四稜郭に手を入れなかったころは、季節になると郭内には一面のスズランが咲き乱れていたものでした。市が手入をして遊歩道が出来、郭内にはジャリが敷かれました。それはそれとしてよいのですが我慢のならないのは2~3年前から港や海峡を見渡せる場所へ桜などの木を植樹した事です。そもそも四稜郭は五稜郭裏門と東照宮(昔はその跡が鍛治村にあった)を守備するためと、上磯方面、湯の川方面からの官軍の来襲を監視するために造ったもので、あの高台が戦術的好位置として選ばれたものと考えられます。かような史実を無視して、桜の名所にするためか、あるいは下方の牧場の建物を目かくしするためか、その意図は不明ですが、植樹した事によって、四稜郭の史的意義と、またとない眺望の美しさを破壊した事に、私は非常な痛恨を感じるものです。もし、この桜が四稜郭の後背部に植樹されたものなら、横津山系と調和してそれこそ桜の名所にしてもよいと思うのですが…。それから四稜郭に行く途中の道路にこの道路開削の石碑があります。それには先人の道路工事の由来が刻まれておりますが、その碑が根元から折れて台座の横にたてかけられております。四稜郭の入口にこのとりでの戦いで戦死した人達の名を刻んだ石碑があります。風雪にさらされて台座もくずれただの石コロのように放置されているのは、横にある四稜郭の立派な説明板と異様な対照をしているように思われます。東照宮跡も余程注意しないとわからなくなっている事も寂しい事です。
 その三、ハリストス教会と公会堂周辺。
 函館市がこの周辺を函館市観光の中心として並々ならぬ熱意と努力を集中していることに対して、私のようなひねくれた者でも双手をあげて賛同するものであります。願わくば函館の歴史の原点とでもいうべき元町界隈を風格のある良き時代の函館の雰囲気を十分残して保存してほしいということです。
 私は歴史的意義を認識した上での保存には大賛成なのですが、観光資源としての保存的開発には少々抵抗を感じているものであります。資源の少ない函館において観光は勿論非常に重要な事であることは当然でありますが観光に重点を置き過ぎて、その街並みの持つ歴史的気品と風格を損う事のないよう危惧するものであります。
 街並みの保存にはその術が長い年月をかけてつちかって来た史的風土をきずつけぬよう細心の注意を深い愛情を持って保存し、なお必要があれば開発してほしいと願うものであります。赤レンガの歩道や橙色の街燈はどこか他国の街のイミテーションのようで余り感じのよいアイデアだとは思われません。

極楽寺で古い碑を再建

会田 金吾

 我々会員はS55年10月、汗による活動の一環として吉川町・浄土宗極楽寺の埋もれた供養碑などを再建した。
 きっかけは、名も残らない庶民の記録である古い供養碑などを発掘して保存しようとの意図からである。
 同寺は信心深い人々の喜びそうな名だが、前身は慶応2年(1866)、箱館奉行が刑死者の霊を供養するため建立した「念仏堂」といわれる。葬う仏は、無縁が多いところから「無縁寺」とも呼んでいた。明治40年(1907)の火災で焼失し、今の国道ぶちから現地にひっ込め再建された。現名になったのは昭和17年からである。
 境内には、様々な因縁をもつ碑や、慶応期以前の墓が多数ある。中でも最近、確認された北辺防衛の弘前藩陣没者(安政期~慶応期)の墓が7基あり、日の目をみた。骨堂にはエンマ大王、三途河の婆の木像がある。また、日幕軍の土方歳三を葬ったという物語りや、”無縁寺の怪”の伝説がある。寺の始まりは、慶応期とされているが、古墓(最古は天明4年「1784」)、古碑、あるいは慶応まえの刑場(同寺付近)から、念仏堂以前に拝み堂(市街地から出張の拝み憎)くらいはあった、と推測される。で、寺歴は更に古いことになろう。
 同寺は、かかる謎めいた、しかも異色な存在だっただけに今後の調査に待つところが多い。
 10月3日、清水建設の玉石、砂利の提供と、会員松本組の奉仕によって土中に半分ほどうずもれていた「横難横死万霊塚」(文政4年「1821」)「馬頭観音」「諸国戦死供養の常夜灯」の3基を門の傍に立て直した。
 5日は会員約20人が参加して境内奥に半分以上うずもれていた約1トンの自然石の墓(明治33年の女性の名)を1時間半にわたって引き上げ、浄水をかけ合掌した。10時すぎ立て直した3基の前に花や供物をし、上杉住職の読経で供養。各人が焼香し、非業の死を遂げた人々や、無名の箱館戦争戦死者の、めい福を祈った。
 住職は「皆さんの力で古い墓が再建され感謝にたえません。仏もさぞ喜んでくれると信じます」と礼を述べた。終って 庫裡にて同寺の心ある差し入れの果物など有難く頂戴し歓談、昼食をとった。その後くばられた案内資料を見ながら寺内、境内を廻って勉強した。
 14時ころ散会したが、今回の活動は、住民の中にとけこんだ当会スローガンそのものだったのでは、なかろうか……。

~旧渡島支庁庁舎と旧函館郵便局~その顛末記…

 昨年11月、当会は旧渡島支庁庁舎移築に対し街頭署名運動をすると共に、市側·議会に現地修復の請願をした。
 更に所有者の柳沢氏による「旧函館郵便局取り毀し」通知に対しても、その保存と活用を計るよう併せて要請した。然し旧渡島支庁庁舎は30米後方へ移築と決定、旧郵便局については、市はこれを1月まで「道立北洋資料館」の第一候補としていながら、2月に至り急転直下、資料館は市立とし五稜郭函商跡地に建てることに決めた。
 その理由の一つは、資料が少なく道立にする規模ではないとの道側の判断に対し市に北洋資料館のビジョンが無かったこと、第二にレンが造りの建物がその維持管理にカネがかかるとの財政的見地から安直な方法に走ったことにある。斯くて旧函館郵便局の活用も御破算となった訳である。本来なら街づくりの観点からも、北洋漁業にゆかりのある港の見える地にその場所を求めるのが筋であり、又、200坪という狭さでは古文書の展示にのみ堕し、魅力ある資料館とはなり得ない。然もこの決定には、情報公開をし市民のコンセンサスを得るという民主的ルールを無視してしまっている。これを踏まえて、当会も参加している「函館街づくり連絡協」を中心に有志が集まり「市民の資料館を実現する会」を結成、市民運動を展開している。然しこの旧函館郵便局もいつこの世から姿を消すか分らない運命にある。所せん、私有物である建物の処分に対して市民運動は無力なのだろうか。
 この建物の維持には年間1千万円以上、その取得活用には数億必要という。それについてのカネは誰がどう調達できるのか、行政はどう対処すべきなのか、市民が資金拠出に立ち上がるような盛り上がりをどう図るのか。目前には焦眉の問題が横たわっている。旧渡島支庁庁舎移築決定は、現地修復の主張をとる当会にとって敗退かもしれない。然しこの北洋資料館問題に目をつぶっていては、市民参加による街づくりへの道は開かれない。恐るべきは精神的敗退であり、文化遣産保存に我々はこれ以上の”敗退の記録”を重ねてはなるまい。(文責 大河内)

函館の魅力ある建物

運営委員 高瀬 則彦

 茅葺きの屋根は、住生活の変化に伴い急速に失われつつあります。大野町や七飯町には多く見られるとはいえ実体は納屋や車庫に転用され、母屋は新築されている改例がかなりあります。屋根葺きは専門職人のほか、補助労力も大量に必要としました。本州では、屋根無尽、茅講などを作って、労力、材料の提供をして協力しました。北海道では明確な協力組織はなかったようですが、共同作業は、やはり必要でありました。今日では、このような事は困難になっていると思います。住生活の変化、材料の入手難に加え、社会生活の変化も茅葺き屋根を過去のものにしています。
 ここに紹介する民家は、建築年代、家屋の規模、材料などから、文化財的な建築物として注目されます。

■ 永田 勝雄氏宅
■ 所在地 函館市赤川町200
■ 建築年 万延元年(1860)
■ 構造  木造茅葺 平屋

 永田家は岩手県三戸の出身で、万延元年の建築、幕末桜田門外の変があった年です。120年になりますが、屋根は50年前に全面葺き替え、20年前に部分的に改修(さしがや)しました。一部は現代風に改造されていますが、大体は昔そのまま、梁は太く反りがあり、柱には重量感があります。明治2年の箱館戦争の際、官軍の屯所として接収され、その時の玄関口は、今は使用されていませんが当時のままになっています。官軍幕軍を間わず、村民にとっては恐ろしかったわけで、家族は裏の畑に穴を掘って隠れていたのだそうです。

■ 近江 新三郎氏宅
■ 所在地 函館市赤川町372
■ 建築年 明治17年(1884)
■ 構造  木造茅葺 平屋

 近江家は滋賀県近江の出身で、永田家と共に亀田(赤川)の旧家です。よく手入れが行われていて、前庭を含めて茅葺き屋根民家の美しさが感じられます。どちらも屋根に煙出しがついていますが、この煙によるススやタールは茅の保護に役立ちました。雨水を防ぐために、屋根の傾斜は45度から60度が普通で、かなり厚みもあり、その結果、建物は柱や壁の部分よりも屋根面の方がはるかに大きくなります。建坪の大きな家は、それだけ屋根は大きくて高くなり、旧家の風格が出ております。

函館における明治期の学校教育の浮沈

大森 好男

 私はよくこういうことを耳にする。「函館は商人の町であり、商人にとって学問はあまり必要としなかった。そのことが、教育にはあまり力を入れないという函館の風土をつくりあげた。かつて高商、高工、医大などの誘地にいつも遅れをとったのはそのためである」と。そして大金を握っていた昔の豪商たちがもっと教育面に援助をしていたならば、函館の現状はかなり違っていたであろうと批判するのである。しかしそれは明治・大正期の函館の歴史を正しく理解していない人たちの誤った推量であり、大変な誤解なのである。
 明治・大正期の歴史を調べてみると、当時の豪商たちは教育や文化に対しては大変な力の入れようであり、いつも驚くほどの高額寄付をしており、また市民も子弟の教育にきわめて熱心であったことがよくわかる。函館の学校教育は、恵まれた経済力と、西洋文明に早くから接したことによる歴史的な風土から、他都市にくらべるとさるかに順調な滑り出しであった。ところが函館は周知のように度々大火に見舞われた。家を焼かれ生計に追われる人びとにとって子弟の教育は二の次であったであろう。また豪商とても店舗や邸宅を焼失すれば一から出直さなければならない。そのようなことが結果的に函館の教育の発展を大きく阻害することになったのである。けっして「商人の町ゆえ」ではない。
 函館においる明治期の学校教育は、大きく分けて三回の盛衰があった。それについて概略を述べてみたい。
① 明治8年、官立会所学校が学制に基づく北海道最初の学校として開設され、それに続いて松蔭・住吉・宝来など公立六校が開設し、ここに函館の学校教育はきわめて順調なスタートをきった。しかしそれもつかの間、明治12年の大火によって公立四校の焼失、廃校など、函館の教育は大きく後退の已むなきにいたった。
② その後の復興により、明治15年市の中心地域に弥生学校が開校し、続いて西部に幸、東部の新開地に東川・高砂の各校ができてようやく遅れをとりもどしたと思われたのである。ところが明治20年、今度は弥生・宝来を除く他の公立四校を私立へ移管するという受難に遭遇し、またもや大きく後退する。これはコレラまん延による水道敷設からくる市財政の窮乏が原因という。
③ 日清・日露両戦争の勝利などにより、わが国の教育制度は飛躍的な発展をとげ、明治40年からは義務教育の六年制が実施された。しかしこのような発展に背を向けるように、この年の大火により函館の教育はまたしても後退の憂き目にあったわけである。

北洋漁業の遷り変り

今田 光夫

『函館の都市形成と北洋漁業とはかかわりありが深い。』北洋漁業を「わが国北域の国際的漁業」と定義し、その移り変わりを述べる。
 北域の漁業の国際的接触はまず樺太に始まる。樺太の帰属は日・露間にいくたびか変転するが、その都度邦人漁業は浮沈をくりかえす。露領時代(1875~1905)次第につのる露側の圧迫にあきたらぬ邦人漁業者の一部は、自ら船を仕立てて露領沿海州に買魚名目で出漁し、その一部はさらにカムチャツカ沿岸を指向し、後の露領漁業のいとぐちをなす。
 明治20~30年(1887~1897)にかけて外国のオットセイ猟船が日本近海に殺到する。日本猟船はそのころからポツポツ現われるが、外国猟船には及ばなかった。30年代に入るとにわかに勢力をのばし、遠く米領プリビロフ諸島からカリフォルニアの沖合に進出する。しかし、資源の減少が顕著となり、明治45年(1912)日英米露四国は「オットセイ保護条約」を結んで、洋上捕獲は禁止され、日本猟船約50隻も賠償を受けて廃業する。
 廃業した猟船は、西カム沖合の「米式タラー本釣」に転ずる。タラ船はタラバガニの豊富な分布を確かめ、海水処理によるカニ缶詰の製法が工夫されて、「カニ工船」の誕生をみる。
 日露漁業条約(明治40年、1907)によって日本人民は露領シベリア沿岸で漁業を営む権利を獲得する。露領漁業は群小漁家の着手にはじまるが、缶詰生産に転ずることによって資源企業化し、遂には日魯漁業の独占形態が成立する(昭和8年、1933)。露領漁業の不安定性は沖取(公海上の漁業)の構想を生み、カニ工船の成功によって、それが可能となる。沖建網方式で始められ、流網方式に転じ今日と同様の母船式漁業が生まれる。
 一方永く放置されていた北千島は、小漁船の流網漁業基地として登場し(昭和7年、1932)、さらに大規模な定置漁業を加え、サケ・マスの生産においては、露領漁業・母船式漁業の上に位置することになる。
 戦後の北洋漁業は、サケ・マス母船式漁業に始まり、400万トンの生産をあげるに至ったが、大陸棚法、さらには200カイリ漁業水域の設定に伴って、生産規模は縮少し、生産量も200万トンと半減した。将来のわが国の食糧事情から見れば、1千万トンの海面漁業生産を必要とする。北洋漁業の体験を生かし、漁業生産の恒常的な確保に工夫が求められよう。

会のあゆみ 《55.9.6~56.4.14》

  9. 6 元町公園構想シンポジウム
 10. 5 極楽寺探訪の会(目で見る学習会)
 10.14 第18回運営委員会
 11. 8 湾岸道路計画についての勉強会
  〃  第19回運営委員会
 11.15 第20回運営委員会
 11.19 旧渡島支庁庁舎を現在地に修復保存に関する陳情書、
     旧函館郵便局局舎の保存と北洋資料館活用に関する陳情書を函館市長、
     函館市教育委員会、函館市議会議長に提出
 11.15~30 歴史をしのぶ私の好きな建物コンクール実施
 11.22~23 旧渡島支庁庁舎を守りましょうの街頭署名運動
 12. 9 第21回運営委員会
  1.27 函館の街なみを美しくする新春チャリティーパーティー
  2.14 勉強会(函館における明治期の学校制度、北洋漁業の移り変わり)
  3.10 運営委員会
  4.14 運営委員会

編集後記

 例年にないくらい寒い、ながい天候が続いていましたが、この頃になって、ようやく初夏のかおりがその風とともに、函館の街をつつむような気持のいい日々を感ずる今日今頃です。
 さて、わが函館の歴史的風土を守る会も市民とともに歩みつづけ4年…… 。そして名称も「歴風会」として、もう市民になじんで来ています。この機会に会報名を、「れきふう」と変更しましたのでよろしくお願いします。(M.H)

<募集>
■「歴風」のシンボルマーク
全国にほこれる「函館歴風会」のイメージを表わして下さい。詳しくは企画部へ……。

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