《第3回定期総会記念講演より》建築家から見た函館の観光への一つの見解
現早稲田大学名誉教授 明石 信道
略歴
○函館市青柳町に生まる
○新川小、函中を経て早稲田大学へ
○現早稲田大学名誉教授
☆「古代建築を守る評価について」
建物の評価というものは、その時の技術の評価もあり、又歴史的存在の評価と経済力の評価もある。後世これを残すべきかべからざるかの決め手を考えるべきである。
☆「観光の有り方について」
観光事業はいろいろの面で解釈されている。古建築や新しい建物に余り固執する訳にもいかない。昔の個々の建物をみる事と街全体をみる、この二つに区別して考えてみたい。
☆「函館で保存したい個々の建物」(保存の手本)
①相馬商事株式会社
市内で最も保存の手本となるのは、大町の同建物である。同建物こそ相馬氏から買い取って保存すべきである。
②旧渡島支庁舎のレンガ書庫
是非保存したい。(昨年11月3日市の指定を受ける)
③ハリストス正教会
保存したい最たる建物だ。このガンガン寺はビザンチンをモスコームした建物で、相当のベテランでないと設計できない。建物の胸にあれだけのグローブをつける事はアイデアがオリジナリティである。ビザンチンの最たる建物だ。この点で高く評価する。函館の観光のシンボルになったのは当然である。
④日下部邸
旧会所町(現末広町)には木造の民家が多く残存する。中でも日下部邸は純漁業家である。所謂、練大漁期時の代表的資産家の最たる建物ではないか。あの辺りは海船問屋、漁具或いは一旗揚げた人達の日本瓦葺の和風建築が5~6軒ある。これら建物は一つ一つ調査する必要がある。非常に貴重な建物と思う。
⑤レンガの防火壁
主に十字街の裏通りや大町にある。最も代表的な防火壁はかつて明治40年の大火で青柳町に燃え移る火を遮断した屏があった。巾3尺で滝野という、はしけなどで資産家になった家のレンガ屏で建物は洋館であった。あの火事を屏で押えた事素晴らしい。
⑥カトリック教会の石屏
カトリック教会に横たわる部厚い石屏は印象深い。あれは本当の函館山の丸くて赤い自然石である。
⑦水道局の官舎
チャチャ登りの突当りに官舎らしき木造の長屋がある。水道局の官舎で開拓使の頃その儘の建物で、価値ある大変な建物である。
⑧土蔵
知人の映画監督の某氏「…末広町から大町にかけての雰囲気は実に得がたいものだ。特に土蔵づくりの家が多いのには感心した」と。土蔵づくりは火災の度に増えた。街中の土蔵は周辺に色ありを添えている。西部には残したい土蔵がかなりある。
☆これ迄市内には保存為損った建物がある。旧函館税関庁舎がそれである。あれはルネッサンスの建物で惜しかった。返えす返えすも反対すべきで、壊してから気がついた。ついでにお隣りの海上自衛隊どこか脇の方へご遠慮願いたい。
☆「函館で保存したい街区」
①市街地(街中)に建物の美観地区を指定したい。美観地区の建物は個々のデザインにおいて審査をうける。特に元町周辺は指定されるべきである。
②函館山は美しい。函館山からの眺めはなお美しい。而し眼下に広がる街並の屋根はモザイクタイルのようだ。屋根の色彩はアンケートをとって統一性を図るべきである。
☆「文化財保存の有り方」
①飛騨(岐阜)の白川村の合学造りに見られる文化財保存のあり方は「文化財にずると襖も天井の張り替えもできない。木1本石1つ脇へ寄せる事もできない。不自由な規則はいやだ。」と言い乍らも保存の意義を見い出し行政の力不足を土地の者が互いに補い合って努力する事にある。文化財保存とはそういうものである。
☆「街全体を観光資源にするにはどんな方法があるか」
①横津岳に市民の為の大規模な公園構想を図るべきだ。―《考察の事由》―○イ現在の函館公園は公園から二つの海が見える全国でも希な公園だ。而し残念乍ら公園自体はスケールが小さく箱庭的だ。○ロゴルフ場ばかり造っていては市民の憩いの場がない。②函館の特徴ともいうべき海と港を活かす方法を考えるべきである。③市内の所々に老人の為の小さな広場を造るべきである。④この街は建築家が多くて仕事が少ないようだ。これ等の若い建築家の皆さんを動員したならもっとよいものができると信じる。例スポーツランド、野球場等は考える余地がある。⑤市内の学校の建物はどの学校をみても観光客をあざむく建物ばかりだ。せめて壁の色を塗り替える等出来ないか。
☆終わりに当り、建物はただ単に格好がついて窓がついてだけいればいいんだというだけでは函館の街は死んじゃう。文化愛好なんていうのは大人の空念仏になる。そんな事のないよう皆さんでしっかりこの函館を守って戴きたい。
《まとめとしての雑感》講演を振り返りあの独特な明石節ともいうべく語り口調は、終止聞く者を引き込み、しかも内容は専門家の実に手厳しい視点でせまり、当会にとっては様々なご提言を戴いた貴重な講演であった。
〔なおまとめに当り、講演内容の全てを収める事ができずー部割愛した事と、口語体、文語体の交織を合せてご了承下さい。〕<田中>
《第3回全国町なみゼミ小樽・函館大会において》―本会代表特別報告―
副会長 大河内 憲司
*とき 55年5月24日(土) *ところ 小樽医師会館
―はじめに―
函館は安政6年(1859年)に開港、爾来、幕府直轄の地として文字通り、エゾ地の首都であり、明治半ばまで文化、経済の中心として先進性を誇り未だに並々ならぬ自負心を持っている土地柄である。また、函館人は自ら人情が厚いと自負しているが、然しその人情は、よそ者や新参者に対しては一変して冷たく排他的であり、函館ナショナリズムとも言われ、これは函館の歴史によって作られた精神的な風土なのかもしれない。
ごく最近迄、函館は造船業界、北洋漁業に大きく依存し、有数の歴史的遺産と自然的景観を有しながらも、それを街づくりの中に生かそうとする文化的視点が欠落したまま、経済偏重の道を辿って来たのである。然しここ数年、函館ドックや漁業界の不振などにより、函館はこれまでの路線とは異なった街づくりへの、質的変換が望まれる事態となっている。さて、函館発祥の地である西部地域は海外文化の香りをとどめる近代建築が数多く残っており、自然景観と和洋建築とが相まって独特の雰囲気を醸し出している。この地区に明治42年建造の旧渡島支庁庁舎がある。
―当会発足の経過―
この支庁庁舎の野幌·開拓村移転を決定した市文化財調査委員会の答申に対し、当会副会長、田尻女史が道新に”現在地で修復を”と移転反対の投書を寄せたのが52年9月、以後、当会発足までの動きは目まぐるしく且つ急テンポに進行、53年4月22日「函館の歴史的風土を守る会」が正式に発足した。これまで丁度満2年、「学び、知らせ、守る」の三原則をスローガンに文化財保存のための運動を展開、半年後の10月には、「旧渡島支庁庁舎の評価と保存、利用に関する提言」を市に提出、以後、庁舎は現地保存と決定した。更に昨54年11月には、庁舎は市有形文化財の指定を得たのである。欺くて旧渡島支庁庁舎問題は。2年有余にして一件落着かに見えたのである。
―移動説のくすぶりについて―
然し最近、西部の元町公園整備計画の一環として、庁舎を敷地内の別な場所にずらそうとする動きがある。「基坂の下から眺めると手前にある旧渡島支庁庁舎のため。旧函館区公会堂がさえぎられて見えない。お上が造った威圧的な庁舎より市民によって建てられた公会堂こそ正面に見えるようにすべき」というのが移動派の主張の一つである。公会堂は豪商、相馬哲平の寄附金で明治43年に完成、貴重な洋風建築物として国の重要文化財に指定されているものである。移動派の人たちの意識の底には、明治新政府に対する反発が未だに残っているという観方もあり「保存どころか、ぶっつぶしてほしいくらい、守れというのはヨソ者ばかり」という古老もいるという。よそ者的排他意識、怨念など今更という感もするのだが、然し町並みや文化遺産の整備·保存に関しては、住民の合意·参画なしには進めていけないのだから単なる一部の声として看過するわけにはいかない。
1) “お上”が造った威圧的庁舎云々……」については、建造物の持つ歴史的連続性と今日的存在意義を度外視した視野狭窄がそこにはある。例えば城下町にある”城”は今や身分制度やお上の威光を示すものではなく、その都市のランドマークという精神的機能を持ち、その存在を再評価されている。
2) “ヨソ者”という考えについてであるが、函館の住民構成をみると西部地区は生粋の函館っ子が殆んどであるのに対し、新興の東部は流入流出する人たち、即ち転勤族とか途中から移住して来た住民が多い。然し函館っ子でないから函館の歴史·魅力が分らないということにはならない。たとえ短期間であろうとも住み心地の良さを求め、町づくりに関心を持つのは当然である。今やその土地に生まれ育ち、そこで死んでいくという住民は少なくなって来ている。都市は絶えず流動化現象の中で発展し変貌していく。そういう状況下では人々は。過去のふるさととは異なった新しいふるさと作りを求めている。これからは函館っ子の力も大切であるが同時に、流入して来る新しいヨソ者たちのエネルギーをも、街づくりの中に注入していかねばならない。
―今後の問題点―
①点から面への町並み或いは景観保存のための条例づくりへと働きかける。②調査、再評価、計画という保存修景のプロセスの中で、再評価に重点を置いた歴史的建造物の積極的再利用を提言していく。③次代を担う若者たちが文化遺産や町並みの保存に対して関心が薄い。従って若者たちの参加を積極的に呼びかけ函館の街づくりを考えていく。
―おわりに―
当会の委員の多くが西部地区に居住しておらず且つ、いわゆる”ヨソ者”であるところに運動面での隘路がある。よそ者意識、排他意識のせめぎ合う函館の精神的風土の中で、我々の西部地区住民への働きかけが鈍っている現状をいかに打破していくかが大切である。町並みとか歴史的遺産というものが、その地域に住む人々の結びつきや連帯感を高め合う場になるべく、函館の排他的精神風土の変革を求め、コミュニティのコンセンサスを得るべく根気のよい運動をしていきたいと思う。
小樽ゼミに参加して…
建築雑考の会Σ 大槻 正敏
現在私達の廻りでは、速い経済の流れの中で、目先の事のみを考えた開発がどんどん進んでおります。それ等は、町並みとはほど遠い全く計画性の無いものです。これらの現実は私達の将来に不安を抱かせるのに十分なものです。
…「運河と石造倉庫群の町小樽」へ行ったら、運河も石造倉庫もなく、有るのはそれらしき物だけ、そしてそこには立体交差の道路。「洋館と石畳みの坂から見る港の町函館」に来たら、舗装された坂道と、アルミサッシの付いた洋館、そして汚された港…こんな薄っぺらな街にあって果して私達の生活に安らぎが得られるのでしょうか。そして又、観光函館の経済にも不安が残りはしないか。全国各地の気候風土の中ではぐくまれ育った町の顔を無くしたくないと全国から、保存活動を成功させた人々、小樽と同じように必死になって現在活動している人々、京都から、長崎から、小樽の為に、日本の文化の為に、そして、私達の将来の為に、多勢の人達が小樽と函館に集まった。そして必死になって開発と保存との接点を見つける為に討論した。そしてそこには西山、伊藤、大谷の各先生も居た。 小樽運河を守る会の人達の努力、特に若い人達、たぶんこの人達はほとんどの休日を小樽の為に費やしているのではないかと思うほどでした。暮の小樽運河の風景は。格別なものでした。小樽の匂いを感じ、あれが小樽の美くしさなんだと思いました。
私は函館の町が好きです。5年前の函館の町はもっと好きでした。10年前の函館の町はさらに好きでした。早朝の石畳みの坂の上から函館港を見る。並木の間から見える洋館、坂の下に小さく見えるチンチン電車、港には連絡船が…これが函館の美くしさなのです。
私達の町函館にも、私達がしなければならない事が沢山あるように思います。湾岸道路、旧渡島支庁々舎移設、文化財の修復、等々、これらは、私達函館に住む者が、本当に函館の町の事を考え、解決して行かなければならない事なのではないでしょうか。
全国の仲間達に遅れない様に頑張らなければならないと感じたのが今回の全国ゼミに参加した私の実感でした。そして来年の集会にも参加したいと考えております。
- 函館集会に参加して… 西部生活学校 川田 悦郎
- 第3回全国町並みゼミ小樽・函館大会宣言文・全容 小樽・函館宣言
- 何を守り・育てるつもりか 文化友の会代表 渋谷 道夫
- 西部に息吹きを… 喫茶銀花店主 長谷川 正路
- 注目の「街と建物―明治・大正・昭和」北海道地区報告会 町づくりと近代の遺産~北海道に現存する古建築の報告会と港町シンポジウム~
- 函館の魅力ある建造物 副会長 川嶋 龍司
- 《トヨタ財団全国巡回地区大会盛岡市開催より》盛岡大会で感じたこと 顧問 近藤 元
- 盛岡市における環境保全制度の背景と条例の一部紹介
- 土蔵と人情と函館と… 岩垂 亨
- 函館の歴史的風土を守る会組織
- 会のあゆみ
- 事務局だより
- へんしゅうこうき


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